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中村朝定

なかむらともさだ

鎌倉時代の御家人。伊達家初代の伊達朝宗の養子で下野中村氏の祖。源義経と正妻の郷御前の一子との伝がある。
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概要編集

プロフィール編集

生没:文治年間生まれ、没年不詳

父:源義経

母:郷御前(義経正室)

養父:伊達朝宗伊佐為宗

幼名:千歳丸、経若

諱:義宗→朝定

官位:蔵人→左衛門尉

経歴編集

藤原秀衡の命を受けた常陸坊海尊が、のちに伊達家初代となる伊達朝宗に千歳丸を託したとされる。朝宗が亡くなると、彼の長男の為宗によって養育される。建仁年間に成人すると義宗と名乗り、朝宗が築城した下野国中村城の第4代城主となる。


承元3年(1209年)に鎌倉幕府(当時の将軍は源実朝、執権は北条義時)の命令で伊佐為家の鎌倉舘預かりとなった。同じ頃、実朝に憚って義経を想起させる義宗の名乗りを改め朝宗から一字を取り朝定と名乗った。義経の血筋を恐れられたかその後は伊達・伊佐氏の元で終生幕府に監視され中村に戻ることなく生涯を終えた。しかし実朝や源頼家、頼家の子の一幡・公暁・禅暁、阿野全成の子の頼全や時元、源範頼の孫・吉見義世らの従兄弟やその子たちの末路を考えれば謀反人とされた義経の血筋を引きながら生涯を全う出来かつ家名も子孫も残せたのは幸いと言える。


八幡宮に奉納するほどの弓の遣い手であったという。中村領主時代は治水に励み、下野衣川(現在の鬼怒川)からの水路を勝瓜口(現在の栃木県真岡市勝瓜近辺)から領内へ通じる用水路の開拓を行った。中村の領民は朝定が亡くなった後に中村城近くに朝定を慕い朝定を土人(この地で育ち生きた人という愛慕の意味を込めた)として『中村大明神』を建立し祀った。

子孫編集

息子の中村縫殿助(朝綱)に孫の中村太郎(頼長)も朝定同様、鶴岡八幡宮に奉納するほどの弓の達者だったという。朝定五世孫の経長は鎌倉幕府滅亡後、中村領を取り戻しその後は同族でもある伊達行朝(大膳大夫政宗の祖父)と共に北畠顕家の配下として南朝方として勇名を馳せた。


関連タグ編集

源義経 義経 郷御前 中村経長 藤原秀衡 伊達朝宗 常陸坊海尊



外部リンク編集

中村朝定 - Wikipedia

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