北畠顕家
きたばたけあきいえ
誕生~15歳の陸奥守
後に『神皇正統記』を記すことで知られる北畠親房の嫡男として生まれる。
当時の公家で最年少クラスの14歳で参議となり、将来を期待されていたようである。
元弘3年(1333年)鎌倉幕府が倒され建武の新政が始まると15歳の若さで鎮守府大将軍として陸奥国府多賀城(今の宮城県多賀城市)に赴任し、当時戦乱の絶えなかった東北地方の統治を担当することとなる。
着任にあたっては義良親王(後の後村上天皇)を奉じ、父の親房も同行していた。
南北朝の動乱勃発~京都への爆走
しかし中先代の乱にて足利尊氏が謀反を起こしたことで、激動の戦乱に巻き込まれていく。後醍醐天皇が派遣した新田義貞らの軍は箱根・竹ノ下の戦いで尊氏に大敗した。尊氏は撤退する義貞を追撃、京に向けて進撃していく。
顕家は義良親王を奉じ、太平記によれば5万の軍勢を率いて奥州を出発、尊氏軍を追った。
顕家はまず1336年1月2日に尊氏の息子の足利義詮、足利家の武将の桃井直常らの軍を破って鎌倉を制圧する。
そのまま東海道を進撃して、1月12日には近江愛知川(現在の滋賀県愛荘町)に達している。半月で600kmの進軍、一日40kmに迫る驚異の進軍であった。これは羽柴秀吉の中国大返しを越えるスピードである。しかも安全な自軍の領土を進軍した中国大返しと違い、顕家の進軍は敵軍を破りながら敵地を突っ走るというものだった。
普通遠征は補給を無視できず、短期間で長距離移動することは不可能に近かったが、顕家は補給を遠征地で現地調達しながら進軍するという方法をとったため足利残党に背後を襲われても瓦解しなかった。
豊島河原の戦い~奥州への帰還
機内に到着した顕家は義貞や楠木正成と合流して、園城寺にて細川定禅率いる足利方の軍勢を破る。
尊氏はいったん京都を撤退し、摂津国豊島河原(現在の大阪府箕面市辺り)で南朝方との決戦に臨む。顕家は義貞や正成とともにこれに勝利し、当時無類の強さを誇っていた尊氏を九州へと落ち延びさせた(豊島河原の戦い)。
顕家は京都に凱旋して権中納言、鎮守府大将軍となったのも束の間、足利方が蠢動する奥州へと戻り、斯波家長や相馬一族を破っている。
この隙に尊氏は西国から大軍を集め反撃を開始。湊川の戦いで正成は戦死、義貞は敗走という危機が訪れた。明けて建武4年(1337年)、父親房や後醍醐帝からは、顕家の上洛を求める書状が相次いで届く。
しかし顕家の奉答書によれば顕家は東国の足利方に包囲されて苦戦していた。
最後の上洛~戦死
8月、顕家は再び義良親王を奉じて再び奥州から上洛の途に就いた。
利根川の戦い、安保原の戦いで関東の足利勢を破り、12月24日に鎌倉を再び攻略して斯波家長を討ち取る。足利方の足利義詮、上杉憲顕らは鎌倉を捨てて脱出。
延元3年(1338年)1月、2年前と同様に1月2日に鎌倉から進軍を開始した。
今度は足利勢も美濃国(岐阜県)で兵を集めてこれを阻みに来たが、青野原の戦いで大勝する。しかし顕家軍の損害も大きく、いったん入京は諦め、伊勢国(三重県)へ向かった。
尊氏は側近の高師泰らを派遣して顕家討伐を図るも決着は着かず。顕家は大和国(奈良県)に転じるも、28日に般若坂の戦いで桃井直常についに敗れてしまった。
顕家は義良親王を吉野へ送り、河内(大阪府南部)へと退却する。足利方は尊氏の執事、高師直らが出撃。一進一退を繰り返すも、顕家軍はじりじりと消耗していった。
5月、後醍醐帝に
- 大がかりな内裏の工事を止め、奢侈を控え、増税はお止め下さい
- 代々朝廷に仕えてきた貴族の荘園を取り上げたり、御政道を貶めるような身分の卑しい者を近づけたり、官位を与えたりするのはお止めください
- 聞き入れられなければ世を捨てて山に篭ります
といった厳しい内容の諫奏文を上奏する(『顕家諫奏文』)。
そしてそれから間もない5月22日に、石津の戦いにて高師直ら足利方と奮戦するも、最後は落馬したところを討ち取られて戦死。享年20であった。
墓所はふたつあり、ひとつは石津(現・大阪府堺市)古戦場にある墓石でここは「終焉の地」の供養塔とされている。もうひとつは阿倍野(現・大阪市阿倍野区)の北畠公園内に建てられており、こちらが伝北畠顕家墓とされ、周辺の地名も北畠と称されている。
容姿
凛々しい美青年(イケメン)であったと言われているが、これは後世の脚色との見方が強い。13歳の頃に北山第行幸にて舞いを舞った時の記録である『舞御覧記』によると
「この比世におしみきてえ給ふ入道大納言の御子ぞかし。形もいたいけしてけなりげに見え給に。此道にさへ達し給へる。」
(現代語訳:幼く可愛らしい姿であり、しかし態度はしっかりしていた。舞の腕前も非常にうまい)
とあることから、実際はイケメンというより中性的で幼く可愛らしい美少年であったことがうかがえる。1991年の大河ドラマ『太平記』にて男性でなく、当時の国民的美少女だった後藤久美子が顕家を演じたのもここら辺が理由かと思われる。
『増鏡』では、同じ舞の場面についてその姿を可愛らしいと表現するどころか「桜の花に夕日が映える中、顕家が輝くが如くに登場した」とある。
太平記(大河ドラマ):後藤久美子が熱演している。
逃げ上手の若君、北畠顕家(逃げ上手の若君):上記記載の通り。
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GRAVITYより転載。テストも兼ねて。 (大元は画像の添付で公開したので、そちらは漫画のほうに投稿します。挿絵付きなので笑 グラに投稿したときよくわからないという方がいたので、解説もつけています… いや、解説つける時点でダメやん🤣) 2次創作。 あきーえとかあびい落書き漫画第二弾と第三弾の合間のお話です。 合間のお話ではあるのですが、読まなくて全然問題ないお話。つまり、先に読んでもまったく問題ないので先に投稿します。 以下、かあびい視点のあらすじ ※ネタバレです。 1 帝から数日お休みをもらったお茶係かあびい(カービィ)は北畠顕家に会いにきた。 顕家とのこれまでのことを思い出しながら茂みから様子を伺っていたが中々気づいてもらえない。それどころか危うく射殺されそうに。なんとか怒られることなく顕家との再会を果たすが、顕家の様子がだんだんおかしくなっていく。ついにはお茶を飲んだ後、顕家は部屋に籠ってしまった。悲しくなったかあびいはやけ食いをしてそのまま眠りについてしまう。 2 次の日の朝、親房の部屋で叩き起こされたかあびい。親房との厳しい死んだフリの特訓が始まる。 するとそこに顕家が通りがかり、特訓の成果を披露することに成功する。顕家との束の間の心地良いひととき…しかしそれは食べ物の匂いで突如終わりを迎え、顕家との仲は拗れたままに。そこに春日が策をくれると申し出てくれて…? 3 春日の策はとても単純なものだった。策の通りに夜、顕家の部屋を訪れると酔っ払った顕家に絡まれる。酔ったせいもあるだろう、顕家は堰を切ったようにこれまでの思いの丈をかあびいにぶちまける。顕家の思いは涙となり、星のように煌めいては一粒一粒、布団に吸い込まれて消えていった。あとを知るはかあびいのみ。かあびいは顕家の望み通り聞かなかったことにして夜の闇へと消える。それはまるでかあびい自身が全てを吸い込む暗闇かのようだった。9,556文字pixiv小説作品