概要
藤原山蔭の子孫と称しているが明確ではなく桓武平氏或いは下毛野氏(崇神天皇の子孫)という説がある。
歴史
鎌倉時代から室町時代
伊達氏の祖朝宗が源頼朝の奥州征伐に参加し戦功により頼朝から伊達郡(福島県伊達市)を領したことから始まった。以降伊達氏は駿河国や出雲国の一部地域の地頭ともなった。朝宗は母が源為義の娘(源義朝の妹、頼朝の叔母)で、頼朝とは従兄弟にあたる事もあって重用された。
7代目の行宗は建武の親政では奥州式評定衆となる。南北朝時代の伊達氏は結城宗広と共に南朝側であった。
8代目の宗遠は結城宗広の女壻でもあり、北朝に降伏した。
室町時代には幕府と鎌倉公方が対立し、結城宗広の娘を母とする9代目の政宗(大膳大夫)は鎌倉方と戦い、1385年に出羽長井氏を滅ぼし、米沢城(米沢市)を手に入れ、置賜を伊達氏の拠点とした。伊達家中興の祖とされ、17代目の藤次郎政宗は彼にあやかり命名された。
12代目の成宗は足利義政に太刀23振、馬95頭、砂金380両、銭5万7000疋を献上した。
戦国時代から江戸時代以降
14代目の稙宗は陸奥守護となり奥州地方に勢力を拡大した。さらに塵芥集を制定するが稙宗は子の晴宗と争い最終的に稙宗が降伏し隠居、晴宗が当主となる。
17代目の政宗(藤次郎政宗)は会津などを平定するが、小田原参陣の遅れから豊臣秀吉に会津などを没収され、葛西大崎一揆の後には葛西・大崎13郡に国替となって米沢城を失い、岩出山城(大崎市)に本拠を移す。関ヶ原の戦い(1600年)の後、徳川家康の許可を得て本拠を仙台に移し、仙台藩の祖となった。伊予宇和島藩主や吉田藩主などの分家も興した。
戊辰戦争で仙台藩は会津藩と共に新政府軍と戦ったため28万石に減封、宇和島藩は宗城が議定となり外国事務総督となる。
華族令施行後は仙台藩は伯爵、宇和島藩は伯爵(後に侯爵)、吉田藩は子爵に叙爵された。
主な分家
岩出山伊達家
- 政宗の四男・宗泰を祖とする家。政宗の仙台城の前に居城だった岩出山城と1万4千石を領したことから名乗った。明治維新後、65石に削減されたため、当時の当主だった邦直が蝦夷地石狩郡当別(北海道当別町)へ移住。代わって三男の篤三郎が跡を継ぎ、後代の当主は岩出山町長を務めた。後述の亘理伊達家に婿養子を送り、その子孫が大條氏の正室となり血を伝えたため、家祖の宗泰は異母弟で亘理伊達家当主の宗実とともに伊達みきおの女系祖先となる。
当別伊達家
- 蝦夷地へ移住した伊達邦直が興した岩出山伊達家の別家。開拓の功績により男爵に叙された。
紀州伊達家
陸奥家
- 宗広の六男・宗光を祖とする家。維新後の功績により伯爵に叙された。
伊達宗敦家
亘理伊達家
- 稙宗の三男・実元を祖とする家。その子である成実が亘理郡(宮城県亘理町)2万4千石を領したことから名乗った。成実に子がなかったため、政宗の九男・宗実を養子とした。明治維新後、58石に削減されたため、蝦夷地有珠郡(北海道伊達市)へ移住。開拓の功績により男爵に叙せられた。前述の岩出山伊達家から婿養子を迎えて女系で血統が存続しており、下記の大條氏にも血を伝えたため、後述の伊達みきおと女系でつながる家の一つ。
大枝氏 → 大條氏
- 宗遠の次男・宗行が伊達郡東大枝(伊達市梁川町東大枝)に居館を構えたことが始まり。政宗が出羽米沢城から岩出山城に移されたときに東大枝からの退去を余儀なくされ、それ以降は大條を名乗った。江戸時代は亘理郡坂元(宮城県山元町)4千石を領し、明治維新後に伊達に復姓した。子孫にお笑いコンビサンドイッチマンの伊達みきおとみきおの姪で声優の伊達さゆりがいる。