概要
宮城県仙台市青葉区(旧陸奥国宮城郡青葉山)に築かれた日本の城である。
別名として青葉城や五城楼がある(ちなみに2つとも力士の四股名として存在する)。
沿革
江戸時代まで
鎌倉時代後期以降、青葉山には千体城、のちに千代城が築かれた。
伊達政宗が当地を支配すると当時の千代城主であった国分氏は退転、政宗は北方の岩出山城(現在の宮城県大崎市にあった)を本拠地に周辺を支配する。関ヶ原の合戦後、伊達家六十余万石の政庁及び戦時の拠点として青葉山に仙台城が築城されることになった。
こうして、1601年(慶長6年)着工した新しい仙台城は伊達政宗によって青葉山に築城された。青葉山段丘の標高100mを越える山頂近くの台地に本丸を構え、400畳を超える壮大な大広間、東側の断崖に張り出して城下町を見渡せる懸造りといった建築があった。実戦を想定した堅固な山城として築城されており、この時代には珍しく二の丸や三の丸を持たない城である。険しい山の上に本丸と西の丸のみがあるという前時代的な構造であった。
しかし、スペイン人冒険家ビスカイーノは仙台城を「日本で最も堅固な城」と評している。北と東は広瀬川が天然の外堀となり、それを乗り越えても青葉山の山塊に阻まれて鉄砲の的になってしまう。そして南は竜の口渓谷という断崖絶壁で閉ざされて渡りようもない。西は蕃山から連なる深い山林であり、これも大軍を動かすのは不可能である。政宗が何者と戦うつもりであったかは定かではないが、内政向けではなく実戦向けの城であったのは確かである。なお天守台は存在するが、結局天守は建てられなかった。広瀬川の東岸には仙台の城下町が形成された。
問題点は、あまりにも堅固すぎたことである。藩主が帰城するにも大変な山登りを強いられてしまう。世が平和になったこともあり、結局儀式などを除いては、政宗も広瀬川対岸の花壇の地、後には南東に離れた若林に屋敷を設けて政務はそちらで取っていた。そして二代藩主忠宗は山麓北側の往来に良い段丘に新たに二の丸、三の丸を作っている。これにより仙台城は平山城となった。二の丸には藩主が普段住む御殿と伊達家の政庁が置かれ、三の丸は主に倉庫などに用いられた。
戊辰戦争の折には奥羽越列藩同盟盟主の城となるが、結局一度も戦火に見まわれることは無かった。むしろ地震や火災などの災害のほうが多かったという。
明治維新後
仙台藩が明治政府と対立した奥羽越列藩同盟の盟主となったが仙台近辺での大規模な交戦はなく、新政府へ引き渡された。
1871年(明治4年)二の丸に陸軍東北鎮台が入り、それに前後して本丸の建物が撤去される。1882年(明治15年)に二の丸は火災で全焼して藩政期の建物は失われる。僅かに残った大手門やその他の建物も、地震や風水害、空襲、戦後米進駐軍の都合による破却などで他所に移築された部分を除き全てが失われた。
紆余曲折を経て、現在は城地の一部を東北大学川内キャンパス、宮城県護国神社等が占めている。本丸などの石垣は藩政期のものが残されている他、かつての大手門の脇櫓が再建されて仙台城のシンボルとなってきた。一時は街中からもよく見える艮櫓を再建して新たなシンボルにする計画もあった。だが調査の結果、築城間もない1646年の地震で倒壊し以後存在しなかった事、櫓があった当時の石垣は地震後の再建で地中に埋まっており、史実を無視して現在の石垣に再建すると政宗期の石垣が破壊される事などが分かり、中断されている。現在は大手門の再建計画が進められている。
築城裏話
築城当時幕府は築城候補地を1~3番目まで定めて提出することを義務付けており、第1候補に築城許可が下りることはまず無かった。そこで政宗は第1と第3をあえて入れ替えて提出したが、何故か第1候補の青葉山に許可を下りてしまい悔しがったと言う。
他に候補地に上がっていたのは榴ヶ岡(仙台市宮城野区)、大年寺山(仙台市太白区)、日和山(石巻市)などとされる。
余談
- ビスカイーノは慶長期に仙台で起きた津波に遭遇している。海の上にいて逆に助かったという。
- 雅称「青葉城」「五城楼」はいずれも戦後大相撲において関取の四股名となった。
- 仙台城のシンボルとなっている伊達政宗公騎馬像だが、令和4年3月16日に発生した福島県沖地震の影響で破損し、2023年3月までかけて修復が行われた。