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概要

関白となった秀吉が京都を治めるため政庁兼邸宅として築かれた「城」である。

1586年より、それまで秀吉が京都の拠点としていた妙顕寺城を廃止し、築城工事が開始され、翌年9月に完成した。

邸宅と言われるがれっきとした城である。


一般的には「じゅらくだい」と呼ばれるが、当時は「じゅらくてい」と呼ばれていたとも言われており、近年のドラマや時代劇では「じゅらくてい」が採用されている。

※真田丸でも「じゅらくてい」呼びであった


聚楽という言葉は「長生不老の樂(うたまい)を聚(あつ)むるものなり」と言う意味とされているが、後付けであり正確には「秀吉の造語」であったとされる。


甥の秀次に関白を譲った後は秀次の居城となった。

秀次により北の丸が増設されたとも言われる。

1595年の秀次切腹後、聚楽第は徹底的に破却されており遺構はほとんど残っていない。


構造

ルイス・フロイスのは「絢爛(けんらん)豪華で、深い濠(ほり)と石壁で取り囲まれ、野にも山にも空いたところが無い」とまでいわしめた。

※ルイス・フロイスは秀吉に関しては辛口で有名である


聚楽第は秀次失脚後徹底的に破壊されたため、その構造の詳細は不明であったが、三井家屏風や浅野家文庫諸国古城図等の絵図、後陽成天皇行幸記録等の文書、更に現在の京都市街の高低差から下記の構造が判明する。

・縄張りは長方形であり、周りには家臣たちの屋敷がめぐらされていた。

・瓦には金箔がふんだんに使われている。

・「石のついがき」「山のごとく」とも記されている。

・壁面は白亜(塗籠か大壁造りかは不明)


特に諸国古城図から、方形の本丸の南北西に馬出を設け、東・南側に外郭の一部を構築していた事が判明する。

本構造は、聚楽第を模したと称せられる広島城とも近似する。


曖昧さ回避



関連項目

豊臣秀吉 豊臣秀次

八幡山城

ソウルキャリバー - に「聚楽第・別邸」というステージが登場する。

佐々木蔵之介 - 実家である佐々木酒造の所在地はかつての聚楽第の南端に位置し、これにちなんだ「聚楽第」という銘柄の日本酒も、主力商品のひとつとして製造・販売している。

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