概要
永禄11年(1568年)~文禄4年(1595年)
三好吉房と日秀院(豊臣秀吉の姉)の長男。実弟に豊臣秀勝がいる。
豊臣政権時代には天下人となった秀吉との血縁から重用され、彼の後継者として2代目関白となるが、俗に「秀次事件」と称される一連の出来事により非業の最期を遂げた。
秀吉が豊太閤と呼ばれるのに対し、死の前に出家したことから豊禅閤と呼ばれる。
生涯
出生
1568年に誕生。
羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)とその主君である織田信長の勢力拡大のため、幼少期より宮部継潤、三好康長らの養子(人質)として送り込まれる。この頃には元服しており、宮部氏時代は宮部吉継(みやべ よしつぐ)、三好氏時代には三好信吉(みよし のぶよし)と名乗った。
武将として
1582年、信長が重臣・明智光秀の謀反により本能寺にて倒れる(本能寺の変)。
当時、信長の命令で毛利家に侵攻していた秀吉は、即座に毛利と和睦し帰参。信長の三男・織田信孝、四男・織田秀勝(秀吉の養子)らとともに山崎の地にて明智軍を撃破する。信吉の初陣はこの時であったと伝わっている。
以降は秀吉の親族として、彼の織田家における台頭に貢献。1583年の賤ヶ岳の戦いにも参陣し、織田信孝、柴田勝家の撃破に際して武功を上げた。なお、この翌年に羽柴姓に復し名を羽柴信吉と改めた。
しかし、翌年の小牧・長久手の戦いでは、別働隊2万の軍勢の大将に任じられるも、織田信雄、徳川家康の迅速な行動に翻弄され、結果織田・徳川軍の先鋒であった水野忠重、井伊直政、榊原康政らに奇襲攻撃を受け、散々に打ち破られた。この局地戦では織田信雄、徳川家康に分があり、結果として池田恒興、森長可、木下祐久らが討死するという失態を犯した。主君・織田秀信の重臣として、また織田信長の実子であった織田秀勝の養父として、絶大な権力を持っていた秀吉はこの後長期戦に切り替え、小牧・長久手そのものは政治的に秀吉らの勝利に終わるも、信吉に対する心証はやるせないものであったと言う。
続く1585年の四国征伐では、叔父・羽柴秀長、黒田孝高らの補佐を受けて、長宗我部元親の討伐軍の中核をなし、軍功を上げた。秀吉もこの武功には気をよくしたと伝わっている。その前の紀州征伐などの武功により、近江八幡・山城周辺の領地43万石を領するようになる。九州征伐では前田利家らとともに豊臣領内の防衛のため畿内に残留した。
なお、この頃に秀吉は関白に就任し、信吉も秀吉から偏諱を授かり秀次と名を改め、後に豊臣姓も授かり豊臣秀次と名乗った。
小田原征伐では豊臣軍の中核をなし、前哨戦の山中城攻撃で軍功を上げた。この戦いのさなか、奥州の伊達政宗らが秀吉に降伏したため、1591年、奥州領国仕置きを主導する。前年の小田原征伐の後には織田信雄の旧領であった尾張、伊勢などを与えられ、100万石を越える領地を有していたと言う。
1591年、奥州仕置きを終えた秀次を待っていたのは、秀吉の実弟・秀長と嫡男・鶴松(参考)の相次ぐ死であった。同年2月、秀吉は政治顧問ともいえる千利休を切腹させており、秀吉の独裁的な権力は他の追随を許さないものとなっていた。
関白時代
1591年の12月には秀吉の後任として秀吉の関白職を引き継ぐ。
この頃秀吉の養子であった織田秀勝は既に亡くなっており(1585年12月死没)、同じく養子であった羽柴秀康(徳川家康の次男)は結城家へ養子に送られていた。他の養子であった、豊臣秀勝、豊臣秀俊は健在であったが、ともかく秀吉の一門親族として屈指の立場を手に入れたことになる。
翌年の1592年から文禄・慶長の役が始まり、秀吉から国内統治の多くの権力を移譲されたと伝わっている。しかし、秀吉は太閤として依然強大な権力を有しており、二元政治とも言える体制が構築されていた。同年、実弟の豊臣秀勝が朝鮮にて死去する。
秀次事件
1593年、秀吉に待望の男児、後の豊臣秀頼が誕生する。
既に嫡男の誕生を半ば諦めていた秀吉であったが、このことは秀吉を大いに喜ばせた。56歳にして授かった実子は孫同然のものであり、養子ですら耽溺していた秀吉が、どれだけ秀頼を溺愛したかは想像に難くない。しかしこの秀吉の嫡男溺愛は、養子たちにとって青天の霹靂となる。
1595年、秀次は秀吉から謀叛の疑いをかけられ、関白職を剥奪されて高野山へと送られた。
前年には同じく秀吉の養子であった豊臣秀俊が小早川隆景の養子に送られると言う、半ば厄介払いに近い処遇を受けていた。
一説にこの厳しい処置については、秀次の毅然とした態度、行動が秀吉を警戒させる要因になったとも言われている。秀吉と秀次は双方が行動を起こして秀頼と秀次の娘を婚約させるなどの融和策をとった時期もあったものの、結局ついに関係が修復されることはなかった。
同年7月15日、秀吉の命によって高野山で切腹した。享年28歳。
秀次の妻娘、嫡男の仙千代丸など秀次の血筋を有した、あるいは有する可能性のある人間は全て処刑された(ただし例外的に、池田恒興の娘であった正室の若御前は助命されている。清洲会議以降、羽柴秀吉の味方として、また織田信長の義兄弟、親族として織田家の重鎮であった池田恒興の功績を慮ったと言われている)。
秀次の切腹からわずか5日後、秀吉は嫡男の豊臣秀頼に対する起請文を全国の主要大名悉くに書かせ、忠誠を誓わせている。しかし、次世代の豊臣政権の中枢を担う予定だった者達が軒並み巻き込まれ、無事だった者も徳川家康に接近するなど、豊臣政権の不安定さに拍車をかけることとなった。
老境に至った秀吉が、幼い嫡男のために行った断行は、結果として、豊臣家に暗い影を落とすことになった。
ただしこの説は近年あまり主流では無くなってきている。
挿話
駒姫
秀次事件における最大の被害者としてよく名が挙げられるのが、彼の側室・駒姫である。
彼女は出羽国の大名・最上義光の娘で、小田原攻めの折に秀次と義光が謁見した際、彼女を気に入った秀次が輿入れを切望したとされる。一説では「義光はまだ幼い愛娘を輿入れすることを拒んで断ったが、なおもしつこく要求されて最終的に折れた」とも、「秀次と義光は親しい間柄で、豊臣との親睦のため逆に輿入れを願い出た」ともいわれる。結果的に、駒姫は当時まだ幼かったため「15歳になってから京に送る」という形でその場はおさめられた。
1595年、駒姫が15歳となり約束通り輿入れのために上洛するが、この頃起こったのが前述の「秀次事件」である。駒姫は、まだ実質的な側室になる前だったにも拘わらず、同年8月2日に他の側室達と共に、三条河原に引き立てられ11番目に処刑された。この出来事は最上家にとっても衝撃が走り、彼女の母・大崎夫人も娘の死に心労し2週間後の8月16日に急死。義光もこの事が遺恨となり、後の関ヶ原の戦いでは東軍(徳川方)に味方したといわれる。
ただし処刑の直前に秀吉から駒姫の処刑中止の要請があったが、あと一歩間に合わなかったとされる。執行したのはあの石田三成でもある。
『出羽太平記』『奥羽永慶軍記』などでは「駒姫が東国一の美女であったため、その噂を聞いた秀次が婚姻を懇願した」と伝わるが、これらは江戸時代中期にできた史料であり、鵜呑みにするのは禁物であると思われる。
殺生関白
秀次は「殺生関白」とも呼ばれている。その内容としては「殺生がご法度の比叡山で鹿狩りをした」「千人を斬り殺した」「稽古と称して人を鉄砲や弓矢で殺した」などが伝えられている。しかしその真相は、秀次の死後、豊臣家が秀次の切腹を正当化させるための創作であるとされている。古今東西ありとあらゆる悪行が彼に押し付けられたようだ。
切腹の真相
近年の研究では「秀吉の秀頼溺愛により秀次が邪魔になった」という定説は覆されつつある。
秀吉は秀次の一族と自身の一族の関係を強化するための婚礼などを進めており、両者の関係は当初は大変良好なものであったとされる。
さらに日本を5つの地域に分割しその4つを関白秀次に治めさせ、残り1つを太閤の直轄とするべく計画を進めていた(秀頼の成人後、関白職を交代し秀次が太閤領を引き継ぐ予定だった)。
ところがその後秀次により「天脈拝診怠業事件」が引き起こされると両者の関係は一気に悪化することとなる。
天脈拝診怠業事件とは時の後陽成天皇のかかりつけの医師による定期検診より先に関白秀次の診察を強引に優先させた事件である。
「天皇あっての関白」をアピールしていた秀吉にとってまさに青天の霹靂、許しがたい行為であった。
尚、しばらくして後陽成天皇が亡くなったため当然秀吉は激怒した。
両者の関係悪化から「秀次の謀反疑惑」までそう時間を置くことなく噂されるようになり、秀次は「身の潔白」を証明するために切腹して果てたと言われている。
ところが時の関白が「自害」したなどとされると政権基盤が揺らぐこととなるため、結局は「秀次の謀反」による切腹と世間で報じられることとなる。
身の潔白を証明しようとして逆に謀反疑惑が事実にされるというまったく逆の効果となってしまった。
だが、結局は政権運用を完全には理解できていなかった秀次サイドにも問題があったのである。
秀次の治績
秀次は近江国に八幡城という山城を築き、山麓に城下町を築いた。これが現在の滋賀県近江八幡市である。街作りでは水運を重んじて八幡堀という掘割で琵琶湖と連結し、後の商人の街としての基礎を築いた。また日本最古ともいわれる下水道も整備し、街の外に井戸を掘って上水道も引いたという。こうして地元では、街の創設者である秀次が市政に尽力した記録を自治体や地元企業などが伝えている(参考)。
キリシタン?
カトリックの最大派閥イエズス会の宣教師であるルイス・フロイスは、自著の『日本史』などに、秀次について「この若者は叔父(秀吉)とはまったく異なって、万人から愛される性格の持ち主であった。特に禁欲を保ち、野心家ではなかった」「穏やかで思慮深い性質である」というように記し、他の宣教師たちも彼の人柄を同様に評価しており、秀次は秀吉とは違いキリスト教に寛容だったとされ、キリシタンであったのではないかという説がある。
ただ、秀次は複数の寺院に寄進しており、最後は切腹で果てている。また、その後は自らが寄進した寺で弔われ戒名を与えられているため、仮にキリシタンやイエズス会に協力的だったとしても、(隠れキリシタンの可能性もあるが)彼自身はキリシタン大名である可能性は低いとされている。
真田丸
演 - 新納慎也
大河ドラマ「真田丸」では、第15話「秀吉」から第28話「受難」にかけて登場した。
本作では、気さくで穏やかな性格の優男として描かれている。
豊臣家の実質的な次期当主とされていたが、本人は自身の政治的な手腕に自信が持てておらず、捨(後の鶴松)の誕生によりそうした重責から解放されてほっとしたと語っている(実際、太閤検地を行うことでどのようなことがわかるかと秀吉から聞かれた際には「色々なことが分かります」という至極適当な受け答えをして呆れられている)。ただ、沼田裁定の際には、捨の育児に付きっ切りで手が離せない秀吉に代わって場を切り盛りするなど、なかなかの審美眼の持ち主でもある。
政治家としてはそんな感じだが、文化・教養に関しては造詣が深く、女性用の着物を見繕ったり、小田原城を包囲していた際にも、「もう少し来るのが早ければ満開の桜を見られただろうに」とぼやく描写があった。
女性に対して至極優しく接しており、後に信繁の側室となるきりとも非常に仲が良いが、秀吉からは「女に手が早い」と評されている(もっとも、その秀吉自身も本作ではかなりの女好きとして描かれているが)。
秀次事件については「秀吉からは秀頼の誕生後も信頼されていたが、疑心暗鬼に捕らわれた末に自害してしまい、期待を裏切られた秀吉が怒りと悲しみで暴走した結果、謀反の濡れ衣を着せ関係者を連座させるという形で事態収拾を図った」という解釈で描かれている。
関連項目
劉封:異国の似たような境遇の人物