賤ヶ岳の戦いに至る経緯
天正十年(1582年)、山崎の戦いで主君・織田信長・信忠父子の仇である明智光秀を討った羽柴秀吉は大きな発言力を手に入れ、柴田勝家ら他の重臣が推す信長の三男・織田信孝ではなく信忠の嫡男・三法師(後の織田秀信)を後継者に据えた。とはいえ清洲会議での決定では、織田家の当主は当時3歳の三法師であり、秀吉はあくまで並み居る織田家重臣の1人にすぎなかった。
その後、秀吉は勝家とお市の方の再婚も斡旋する一方で、かつて光秀が使用した山崎城や男山城を改築し信長の葬儀を主宰する、
京都奉行に義弟・浅野長吉(正室は秀吉の正室であるねねの妹・やや)と義叔父・杉原家次(ねねの叔父で小早川秀秋の母方の祖父)を据えるなど勢力固めに奔走。
さらに秀吉は、柴田の宿敵・上杉景勝とも連携することで彼を牽制した。
この行動を勝家は危険視し、府中三奉行の一人で秀吉とも親しい前田利家を通じて、親秀吉派であった堀秀政との交渉で咎めているが、秀吉は一向に解しなかった。
十一月には一応の和睦が結ばれるが、秀吉・勝家の対立は誰の目にも明らかであった。
十二月、秀吉はついに挙兵。秀吉は長浜城主の柴田勝豊が勝家の甥で養子でありながら勝家さらに佐久間盛政・柴田勝政兄弟と不仲であることに目を付け大谷吉継を向かわせ勝豊を降伏させた。その後、美濃へ攻め入り信孝と三法師のいる岐阜城を包囲した。
信孝は自身の宿老である斎藤利堯の急死、稲葉一鉄や森長可らの離反、そして雪深い越前に居する勝家の後援が不可能であった事で、三法師を秀吉の手に渡してしまう。 これより前、秀吉は信孝と対立していた異母兄の織田信雄を味方につけ、表面上はうまく取り繕って目的を遂行した。
翌、天正十一年(西暦1583年)正月、かねてから秀吉に不満を持っていた伊勢の滝川一益が信孝・勝家側について挙兵。親秀吉派だった岡本良勝、亀山城の関盛信といった諸将を破り、亀山城に滝川益氏(前田慶次の実父とも)、峯城に滝川益重、関城に滝川忠征ら一族の将を置き、一益自身は伊勢長島城に入った。
これに呼応して勝家も遂に挙兵、二月末の雪が残る近江路を進み、近江湖北へと進攻するのである。
三月十二日、秀吉は伊勢を離れ、近江国木ノ本に布陣。勝家は盛政や利家らを伴って出陣し近江国柳ヶ瀬に着陣。丹羽長秀も秀吉陣営として敦賀に出陣し、戦況は膠着する。
本戦
四月十六日、信孝が再び挙兵。
此処に来て伊勢でも一益が反信孝派の信雄や蒲生氏郷と対峙したが、一益はさらに美濃の親羽柴派である稲葉一鉄や氏家直昌らの領土も脅かした。秀吉は一益と信孝の動きを警戒し翌十七日、脇を突かれる前に美濃に向けて出陣。大垣城に入る。
この折、秀吉本隊が陣を移した事によって手薄になった北近江の柴田陣営は盛政を筆頭とする主戦論が大勢を占め、盛政が四月十九日、中川清秀を攻めて是を討ち取る。更に岩崎山にて野営していた高山右近を攻めて敗走させ、接収した大岩山砦に居陣する。
この戦況を見て賤ヶ岳砦の守将・桑山重晴は劣勢を悟り撤退を開始したため、賤ヶ岳砦の落城も目の前のように思えた。重晴はのち湖東部へと進攻していた丹羽勢と合流したがこの合流がのちに戦局を大きく左右することになる。
しかし、大岩山砦の落城などの情勢を耳にしていた秀吉本隊が大垣城からとって返し、大垣城を出た昼過ぎから五十キロ余りの行程を6時間ほどで踏破(大垣大返し)。翌日未明、佐久間勢に襲いかかる。
先陣を切った賤ヶ岳七本槍の活躍を目覚ましく、勝家の重臣・拝郷家嘉や柴田勝政らを討ち取り佐久間勢も崩しにかかる。しかし、ここに来て強行軍の影響らかか羽柴勢の勢いが鈍り盛政に押し返されだした。
だが此処で前述の丹羽・桑山勢が海津に上陸を敢行し賤ヶ岳砦を強襲し形勢が羽柴勢に傾いた。
さらに此処に来て、柴田陣営として参戦していた前田勢が突如、無許可で戦線から撤退してしまう。明確な理由は今日以て不明であるが、是を受けて前田勢と対峙していた軍勢も秀吉軍に合流し、戦況はさらに悪くなり善戦していた盛政は本拠地・加賀を目指し敗走。勝家陣営の不利を悟って不破勝光や金森長近までも撤退し、遂に総崩れした勝家は毛受勝照の奮戦もあり本拠地である越前国北ノ庄へと撤退。しかし大勢は既に決しており北ノ庄城で天正十一年四月二十四日、自害。享年62歳。
勝家の辞世の句は、
夏の夜の 夢路はかなき 後の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす
であったと言われている。
またお市の方も落ち延びるのを拒み勝家と運命を共にし自害した。享年37歳。
その後
お市の娘である浅井三姉妹は勝家とお市の計らいもあり秀吉に降る。長女・茶々は秀吉の側室となって豊臣秀頼を生むが大坂の陣に敗れ両親同様の運命を辿る。次女・初は若狭国主となった京極高次の正室、三女・江は徳川家康の三男・徳川秀忠の正室となり徳川家光・徳川忠長兄弟、後水尾天皇の中宮となって女帝・明正天皇の母となった和子を生むこととなった。
また、佐久間盛政は敗走中に捕らえられ秀吉の配下になることを拒み京で斬られた。
織田信孝は兄・織田信雄の命で尾張国知多にかつて源義朝(源頼朝や源義経らの父)が謀殺された野間大坊にて切腹を申しつけられる。
滝川一益は柴田勝家が没した後も抗戦を続け、半年近く所領の北伊勢で頑強に抵抗したが、最終的には降伏し、領土没収の上で京都にて剃髪を命じられ蟄居。丹羽長秀を頼って越前大野に隠居する。その後の滝川家では、滝川益重が秀吉に召し抱えられたが、一益自身も後述の小牧・長久手の戦いでは羽柴方の将として参戦する。
戦いの影響
戦いは便宜上織田信雄、織田信孝両陣営によって行われ、当主となった三法師は戦いに一切関与することができなかった。
幼君でもあり、強力な直臣のいない三法師が、その後「織田家当主」としての権力を衰退させたのは言うまでもなく、
この辺りから傀儡化が本格化する。
勝利者となった信雄は、滝川領だった伊勢長島などを接収。
勢力としては増大したが、戦争に功のあった秀吉を無下に扱うことも出来ず、
この後、織田家中枢の政治を秀吉に徐々に移譲することになる。毛利輝元や徳川家康などの対外交渉は特に秀吉に任されることとなり、秀吉の独走体制をアシストする結果になった
秀吉はこの戦いで中心的役割を果たし、表面上信雄を盛り立てたこともあって
多くの大権を手にすることが出来た。押しも押されもせぬ織田家筆頭重臣となり、勝家らの脱落後は、丹羽長秀・池田恒興も秀吉の行動に従うことが多くなってきた。秀吉はこの後、佐々成政を降し、前田利家などの旧柴田陣営の家臣や、堀秀政といった三法師に属している織田家家臣も懐柔するが今度は信雄・家康と秀吉が対立し小牧・長久手の戦いが発生することになる。