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稲葉一鉄

いなばいってつ

稲葉一鉄とは、戦国時代〜安土桃山時代の武将である。土岐頼芸、斎藤道三・義龍・龍興、織田信長、豊臣秀吉に仕えた。
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プロフィール編集

生没年:1515年〜1588年

幼名:彦六

通称:彦四郎、彦六郎

諱:通以→通朝→貞通→長通→良通

号:一鉄

受領名:右京亮、伊予守


経歴編集

美濃国曽根城主。

氏家直元(卜全)安藤守就(道足)と共に美濃三人衆、不破光治を加えて西美濃四人衆とも呼ばれていた。


稲葉道則の六男として生まれた彦六は幼少期は僧籍にあり快川紹喜に師事したという。しかし、父や5人の兄が浅井亮政(長政の祖父)との戦いで討死したため還俗し稲葉家と曽根城主を継ぎ土岐頼芸に仕えた。その後斎藤利政(道三)高政(義龍)龍興の三代に仕える。ちなみに義龍の生母である深芳野は一色義清(左京大夫、一色義道の弟とは別人)の娘と言われているが一鉄の姉という説もある。


1561年から始まった織田信長による美濃侵攻戦で織田軍と戦った。しかし、龍興とは折り合いが悪く竹中半兵衛による稲葉山城占領事件を境に龍興や側近とはさらに険悪になり、最終的に卜全や道足と共に織田家へ服属。


その後は信長の配下として姉川の戦い・長島一向一揆討伐・長篠の戦い甲州征伐などに参陣。1574年に出家し一鉄と号した。1579年に嫡男(次男)の稲葉貞通に家督を譲る。

1580年に道足が信長から追放されたため安藤氏の所領も与えられた。

1582年に本能寺の変が発生した際には、旧領奪回を狙った道足を返り討ちにし自立し明智光秀と対立。光秀死後は美濃国主となった織田信孝の傘下に入る。しかし、賤ヶ岳の戦いでは金山城主の森長可や大垣城主の氏家直通(卜全の嫡子)と共に信孝に造反し羽柴秀吉に通じ、信孝や滝川一益と戦った。この際に貞通が嫡子の典通に家督を譲ったため貞通と共に典通を後見する。

1584年に清水城に移る。小牧・長久手の戦いでも羽柴方で出陣した。


1588年、清水城にて病死。享年74歳。


人物編集

  • 知勇兼備の名将だったが、頑固者でも知られ「頑固一徹」と言う言葉の語源ともされている。
  • 姉川の戦い後、信長は一鉄を戦功第一と称し、偏諱を授け長通と名乗るように命じたが、その際一鉄は信長に対し、「誰が功績第一ですか!この勝利はどう考えても徳川殿のおかげだと言うのに、なぜ私が徳川殿を差し置いて功績を受けよだなど、本気で言ってるんですか!」と思いっきり言いのけた。
  • 信長とはいろいろあったが最終的には気に入られ信頼を得られた。しかし、秀吉から警戒され不信感を持たれていたようであり、一鉄が清水城へ隠退したのもこれが一因とされる。
  • 九州征伐にはさすがに高齢ゆえか赴かず、当主の典通や前当主の貞通らが赴いた。しかし、典通が秀吉の不興を買い蟄居させられたため貞通が当主に復帰した。
  • 庶長子・稲葉重通やその長男である牧村利貞は信長や秀吉の馬廻を務めた。利貞は利休七哲の一人とされるが、祖父の一鉄もまた茶の湯の心得があり、道三直々に指南を受けたことがある。

フィクションにおける稲葉一鉄編集

NHK大河ドラマ編集


信長の野望シリーズ編集

戦国群雄伝から登場。能力的には一貫して中の上。


関連タグ編集

戦国武将

斎藤道三 織田信長 羽柴秀吉 徳川家康

美濃三人衆 氏家卜全 安藤守就


斎藤利三…娘婿。明智光秀の家老として知られるが、光秀に仕える前は一鉄に仕えていた。

春日局…外孫。江戸幕府三代将軍・徳川家光の乳母。利三の死後、面倒を見ていた。

柴田勝家…賤ヶ岳の戦いで離反した養子の勝豊は貞通の娘婿であり一鉄からすれば孫娘婿に当たる。


星一徹稲葉百万鉄…稲葉一鉄が名前の元ネタと思われる。

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