概要
生没:文亀3年(1503年)~天正10年6月8日(1582年6月27日)
別名:安東 守就
号:道足(入道号)、無用斎(斎号)
官途名:日向守、伊賀守
生涯
文亀3年(1503年)、安藤守利(定重)の子として誕生。
はじめは土岐頼芸に仕えていたが、美濃国が斎藤道三によって奪取され、土岐氏が追放されると道三に仕えた。しかし、長良川の戦いでは道三の長男・斎藤義龍に味方し道三を敗死に追い込んだ。
義龍の死後は斎藤龍興に仕えた。しかし龍興が一部の重臣だけを寵愛して三人衆らを遠ざけたため、諫言したが聞き入れられなかった。
このため、永禄7年(1564年)2月6日に、娘婿の竹中重治(竹中半兵衛)とともに稲葉山城(のちの岐阜城)を攻撃し、龍興は戦わずに城下に放火して逃げ出した。
永禄10年(1567年)、織田信長の美濃侵攻軍に対して他の三人衆らと共に内応し、そのまま信長の家臣として仕えた。その後は永禄11年(1568年)の上洛戦、元亀元年(1570年)の姉川の戦いなどにも参加している。元亀2年(1571年)の伊勢長島攻め(長島一向一揆)では三人衆の卜全が戦死し、守就もこの戦闘に参加しており負傷している。
以降伊勢長島一向一揆の殲滅戦や本願寺攻めなど各地を転戦していたが、天正8年(1580年)8月、突如、信長に野心ありとの嫌疑をかけられて追放される。
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こり、信長が明智光秀により討たれると、守就は子・定治と共に挙兵して北方城を奪い、再起を試みた。しかし当時の北方城の領主で三人衆だった稲葉一鉄に攻められ敗北。6月8日に一族と共に自害する。享年は80歳とされる。