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朝倉義景

あさくらよしかげ

戦国時代の武将。越前の戦国大名。越前朝倉氏第11代(最後)の当主。
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概要編集

生誕 天文2年9月24日(1533年10月12日)

死没 天正元年8月20日(1573年9月16日)

越前戦国大名。越前朝倉氏第11代目当主である。

幼名は長夜叉。後に室町幕府の第13代将軍・足利義輝より「義」の字を与えられ、義景と名乗る。足利義昭を保護するなど将軍家と良好な関係を築いたが、後に織田信長と敵対し、滅ぼされた。


来歴編集

越前戦国大名である朝倉孝景の嫡男として生まれる(異説アリ、後述)。

天文17年(1548年)に父の孝景が死去し、越前朝倉家11代当主として家督を相続する。しかし幼少であったため、義景の祖父の弟にあたる朝倉宗滴が実権を握っていた。

この後弘治元年(1555年)に朝倉宗滴が死去し、自ら政務を取るようになった。


永禄8年(1565年)時の13代将軍足利義輝三好義継松永久秀らに暗殺されると、のちの15代将軍で義輝の弟であった足利義昭は朝倉家を頼って越前に逃れてくる。しかし当時加賀国の一向一揆衆に悩まされていた義景は義昭の上洛要請を拒否し、結果義昭は台頭著しい織田信長を頼って美濃へと落ち延びる。

永禄10年(1567年)には、加賀の一向一揆衆と結んだ家臣の堀江景忠を討伐、翌年には義昭を奉じた織田信長の上洛を支援する形で、若狭守護の武田家内紛を大義名分に侵攻。当主武田元明を保護するとして越前に連行する事で実質的に若狭を勢力下に置いた。


織田信長を頼って上洛し将軍職に任じられた足利義昭は、次第に信長に対して不信感を露わにするようになっていった。一方信長は将軍命令のもと再三上洛してこない朝倉義景に業を煮やし、ついに義昭の望む若狭武田家内紛平定の為の朝倉派の武藤友益討伐を口実に永禄13年(1570年)4月25日に朝倉討伐を開始する。

織田信長・徳川家康の連合軍の若狭方面からの奇襲に、朝倉方は矢面に立つ敦賀郡司で朝倉一門衆の筆頭朝倉景恒の手筒山城が25日に激戦の後に陥落し、景恒の居城金ヶ崎城も26日に開城するなど防戦一方の状態であった。

これには朝倉方が敦賀防衛を諦めるかのように木乃芽峠に兵力を集中し、敦賀への援軍編成も遅々として進まない事も原因でもあった。

この背景には朝倉家中で父が宗滴の養嗣子であった景恒、大野郡司朝倉景鏡、安居城主朝倉景健といった有力一門衆三家の対立があり、また義景も当主の地位を脅かしかねないこれら有力一門衆を束ねるのに苦慮しており、信長の越前侵攻すら景恒の力を削ぐ事に利用したとも言われ、後に景恒は金ケ崎城開城などの責任を問われ失脚し病死、敦賀郡は義景の直轄領とされた。だが、この義景と一門衆の問題は最後まで引きずる事となる。

敦賀郡を信長にほぼ掌握された朝倉であったが、その苦境も浅井長政が急遽味方についたおかげで窮地を脱し、この機を逃さずに織田軍の岐阜への退路を遮断すべく従兄弟の景鏡を将として近江東部に派遣するも、織田・徳川連合軍は若狭から琵琶湖の西沿いと大きく迂回しての整然とした撤退を行い、長蛇を逸する事となる。


その後は浅井長政とタッグを組んで信長に対抗。

6月の姉川の戦いには従兄弟の景健を将とする援軍を送り込み大敗したが、それでもその後の朝倉の活躍からは朝倉軍全体の戦闘力を脅かすほどの損失では無かったともされる。

8月には義景自ら出陣し、宇佐山城の戦いや比叡山の籠城など対信長の最前線で軍を動かし続け信長を苦戦させるが、12月には信長の工作による勅命で講和して撤退する事となった。

その後も義景は対信長包囲網の主力として信長と争うも、もともと織田信長より圧倒的に少ない国力で財政破綻寸前まで無理をしつづけた挙句、信長の調略で元亀3年(1572年)7月に浅井支援に出陣するも重臣の前波吉継らの寝返りにあい、また近江と越前の国境は豪雪地帯の為に冬は積雪で連絡が断たれる不利も抱えており、武田信玄も参戦した対信長包囲網から12月には独断で国内に軍を帰した。これが信長に反撃の隙を与えるチャンスを与えてしまった。


元亀4年(1573年)4月には、信長包囲網の一角を担っていた武田信玄が死去。

その結果を受けて武田軍が甲斐に引き返すという事態になり、東側の圧力が消えた織田信長は天正元年(1573年)8月に浅井長政討伐の為に近江に侵攻。これに対し義景も長政を救援すべく出陣するも、景鏡等が兵役を拒否するという家中に不安を抱えた中での出陣となった。

12日に暴風雨のなかでの奇襲により大嶽砦、13日には丁野山砦が陥落し、小谷城の浅井と分断された義景は単独では織田軍に抗しえないと撤退を決意するが、これは信長の想定通りの行動であり、この機を逃さず信長自ら先頭に立ったという程の激しい織田軍の追撃により殿を務めた山崎吉家など多数の有力家臣を失った朝倉軍は崩壊し、敗走した。

15日になんとか一乗谷に帰陣した義景は兵を集めようとするも応じる者は少なく、彼の手元にあったのは500名程に過ぎず、この現状から景鏡の一乗谷を放棄して彼の所領する大野郡に後退し再起を図る様にとの説得を受け入れるも、既に景鏡は信長に内通していおり、20日に六坊賢松寺にて景鏡の手勢に包囲された義景は家臣が奮闘して時間を稼ぐなか自刃を遂げた。

この戦後処理と同時並行して、織田信長は家臣の羽柴秀吉に命じて浅井長政の討伐を敢行。朝倉と言う後ろ盾を失った浅井家もほぼ同時期に滅亡する事となった。


人物編集

古来より戦略に疎い暗愚な大名として語られることが多い。

ただし擁護論も存在し、また信長包囲網結成時に勝手に撤退したとして武田信玄や足利義昭から非難されているが、重臣の裏切りという予想外の事態や、積雪で本国との連絡を寸断されるという地理的に不利な面があった以上は撤退はやむを得なかった面もあり、ましてや、他人の領地(徳川領)のネコババしかしていない信玄と、ほとんど何もしなかった義昭に非難されるのはもはや悲哀を誘う。


信長に滅ぼされるまでは義景は越前をよく治め、フロイスをして「日本で最も高貴な国」と言わしめた。義景は越前から離れようとせず、国外にほとんど関心を持たなかったとされるが、加賀に兵を出し、若狭に侵攻するなど越前一国で安穏としていた人物ではないとの説もある。足利義昭から上洛戦を要請されても無視し、織田信長から上洛を求められても拒否した。そのため遂には討伐されることになったが、後者に関しては、朝倉家は応仁の乱で織田家の主君でもあった主君斯波氏を追い出し、織田家発祥の地である越前の守護におさまった経緯があり、また義昭を奉ずる大名では織田に次ぐ勢力を持っていた事から、下手に上洛すれば信長に真っ先に潰されかねないとの危機感もあったという説もある。


教養人であり、連歌、和歌、絵画、茶道の才能を持ち、曲水宴を催すこともあった。

小笠原流弓術の心得があり、度々犬追物を行って弓術を披露していたという。


軍事を一族の朝倉宗滴、景隆、景健らに任せることが多く、これは先代の孝景も同様の方針だった。越前国はしばらく平和が続いていたこともあり、義景は軍事経験が少なかった。

また、義景は他に兄弟もおらず、成人した息子もいなかった。頼れる身内武将が少ないことも有力家臣達の不協和音をおさめて束ねる事の失敗に拍車をかけ滅亡の遠因になったとされる。


地元の武将です。


創作物上の扱い編集

戦国大戦編集

楽しいお遊びはまだまだ続くよ

\妹へ!/

概要編集

「1570魔王上洛す」より追加された新勢力、浅井朝倉家のSRとして登場。二つ名は「乱世の遊興者」。

天下という舞台を遊び場に織田信長や明智光秀、浅井長政など名だたる武将を手玉に取り、時にその言動は家臣すらあっけに取られる飄々とした人物としてデザインされている。

顔を完全に覆う仮面を被った一見禍々しい見た目のせいかジェイソンと呼ばれることもしばしば。

そしてのそのデザインや台詞は娘である四葩にも、引き継がれる。

既存の歴史物からあまりにかけ離れたデザインにカルトな人気が出て、ついに公式に朝倉義景単独デザインのショルダートートが発売される事に!

スペックは、コスト1 武力2/統率2の槍足軽で、特技は「伏兵」と「防柵」。戦国大戦のコスト1SRの中で唯一の男性である。

各勢力の当主・指導者の立場ながら史実で家臣に寝返りが多かった事を反映してか、あるいは特技3つ所持では強すぎるのか魅力の特技は所持していない。

所持している特技の組み合わせは柵の配置から伏兵場所がバレやすいと少々ネタっぽく思われるものの、安いコストで柵が用意できるのが便利。

固有計略『一乗谷の栄華』は陣内の敵武将の城攻撃力を半分程度に下げる妨害陣形。全体を通しても珍しい防御専門の計略である。

天下という舞台を遊び場にするのもなかなかに面白いよ


名門朝倉を、侮るんじゃねえぞ!

R朝倉義景

「15XX五畿七道の雄」では戦国数奇を除く浅井朝倉家唯一の新排出カードとして2人目の義景が登場。レアリティはRで、二つ名は「一乗谷の名門」(15XX時点では「一条谷」と誤記されていた)

ジェイソンマスクを外した(?)その姿は尊大なナイスミドルで、半裸の女性たちを何人も侍らせている。

スペックは、コスト1.5 武力4/統率6の槍足軽で、特技は「伏兵」「防柵」「魅力」。

SR版では所持していなかった魅力の特技をついに入手。伏兵と防柵は変わらず持っているため武力が低めなものの3つの特技を持ち総合的なスペックはかなり高い。

固有計略『腐敗の罠』は範囲内の武将に兵力を徐々に減らす効果を与える罠を配置する。自城に入ることで解除されるため、SR版同様防衛時に効果を発揮する計略である。

長政は俺のもんだ。信長なんぞに譲れねえな!


楽しいお遊びは、まだこれからだ

「1477-1615 日ノ本 一統への軍記」にて1人目の義景のデザインがリファインされ再登場。レアリティはSR、二つ名は「無貌の王」。

義景の背後に佇む金色の骸骨は彼の未来の姿なのだろうか・・・?

スペックは、コスト2 武力6/統率8の槍足軽で、特技は「伏兵」「魅力」。

固有計略『髑髏の酒杯(さかずき)』は自身が撤退して範囲内の浅井朝倉家武将を強化する計略。自身以外の計略対象武将の所属の合計コストを参照し、浅井≧朝倉の場合武力と統率と速度が上昇、浅井<朝倉の場合武力と速度が上昇する(速度上昇値が浅井側効果より高い)

君の運命は、私の手の中だよ


英傑大戦編集

私の正体?そんなものは知らないよ……

概要編集

「廻天の五芒星」より朝倉家の所属する紫勢力の武将として参戦。戦国大戦の1人目の義景から二つ名、イラストレーター、声優、デザインが引き継がれている。

群雄伝では蘆屋道満によって真柄直隆と共に江戸時代に召喚され、室町時代の人の顔に興味を持った杉田玄白に襲われてしまった。

その際に仮面を付けている理由を『見たくないものを見ないため』と語っている。

スペックは、コスト1 武力2/知力2、特技は「伏兵」と「防柵」とこちらも戦国大戦から引き継ぎ。レアリティはRで兵種が剣豪に変更されている。

固有計略『一乗谷の栄華』は戦国大戦に比べ必要士気は上昇しているが、陣内の敵武将の城攻撃力に加えて武力も下げるようになっている。

英傑たちとの宴を楽しもうか


戦国無双編集

朝倉義景(戦国無双)も参照。

武器:2では刀剣 3以降は槍 声:山田真一(chronicle2まで) 宮坂俊蔵(4)

朝倉義景の恐ろしさ、とくと味わえ、きえええい!』(3Emp特殊セリフ)

概要編集

越前の戦国大名朝倉家最後の当主。横柄な性格で盟友の浅井を見下し、家臣のように扱ってくる。『2』では味方の場合、戦闘中に勝手に撤退するが、敵の時は突撃してくる事が多い。『2猛将伝』では、蹴鞠をしようと勧める今川義元に対し、豹変をしたかのように蹴鞠を楽しんでくれたが、その姿を見た義元は心配した。

余談だが『2empires』では、朝倉一門衆のみ浅井家の水色から黄色に変わっている。(家臣は水色のまま)


『3』では一方的に救援を求め、長政を使用人のように扱うなど、より無能かつ傲慢なイメージが強調された。更に朝倉家を名族と言い張る。

しかし『Chronicle2nd』では、最後まで自分を支えてくれた長政のために死を覚悟した上で織田軍の囮を引き受けるなど、男らしい一面を見せ、最期は長政に「お主と会えて大きな夢を見れた、また会おうぞ!」と言い残す。


ちなみに『2』では朝倉ワッショイなる物があり、このプレイ動画の10:15辺りからその内容が明らかになる。


なお彼の特殊セリフの「きえええい!」は4Empにてゲーム開始時のイベントにて知将ボイス武将(該当する武将は義景本人や宇喜多直家今川氏真大友宗麟など)が最後に喋る台詞になったため、固有の台詞では無くなった。


関連タグ編集

戦国大戦 小少将 朝倉景鏡 朝倉景健 山崎吉家


殿といっしょ編集

朝倉といっしょ(画像右)

CV:宮野真守

公家風のいでたちをしており、長い黒髪がトレードマーク。宗滴に甘やかされて育てられたためとてつもなくぐうたらであり、暇さえあれば眠ろうとする怠惰な生活を行っている。家臣(真柄直純他)からはその堕落ぶりを咎められることが多いが、に刺されたり逆さ吊りにされて冷や水を浴びせられたりしても寝続けるなど、ある意味大物でもある。

外交・戦争にはまるでやる気を見せず、何かしら理由を付けて言い訳をしては眠る口実にしている。


信長の忍び編集

その頃の2Fテナント(画像右から2番目)

CV:岸尾だいすけ

ネズミ顔(本人はキツネだと思っている)の小男で、とても気が小さい。

当初こそ義昭を匿っていたものの、彼の尊大さをよく思っておらず、彼が一乗谷を出ると知った時にはあまりの嬉しさにガッツポーズしていた。

一向一揆により常に内憂を抱えているため他国との戦争に行こうとせず、は腐食しまくり、草鞋を履けば草鞋ズレ、出陣を求められた時には真冬に滝に打たれながら戦勝を祈願するという、筋金入りの戦嫌い。

しかし暗君ではなく、少なくとも政治家としては優秀で、領民からも敗走した時に「必ず帰ってきて下せえ」と言われるなどかなり慕われている。底抜けに臆病なのも、斎藤龍興からは「人一倍戦の動向が読めるから必要以上に危機が分かっちまう」と「才能」であることを指摘されている。

姉川の戦いでは真柄直隆を、一乗谷城の戦いでは山崎吉家をはじめ多くの家臣団を失い、更に大野に逃れた途端に筆頭家老で従弟の朝倉景鏡に裏切られる。勝ち目がないことを悟った義景は腹を切り、「い…一度でいいから…織田信長と正面から堂々と戦ってみたかったな…」と最後の本音を言い残し、その生涯を終えた。

信長もまた、「捨て身で攻められてたら危ない局面がいくつもあった」と、(土下座をした屈辱こそあるものの)義景の事を内心では認めていたようである。


織田信奈の野望編集

CV:木村良平

浅井家と長年の同盟を結ぶ朝倉家の当主。

幼くして母を亡くし、朝倉宗滴(本作では祖父ではないらしい)のスパルタ教育をうけ鬱屈した幼少期を過ごしていた末、現実に目を向けぬ理想主義者(要するにキモオタ)に成り果ててしまい、『源氏物語』に耽溺するようになる。

反織田連合軍に加わるも、その目的は織田信奈を娶ることにすぎず、信奈へ異常な愛を向けるようになる。

漫画版やアニメでは比叡山までしか描かれていないが、原作小説では史実通り居城一乗谷を滅ぼされてしまい、命からがら逃げ延び土御門久脩に縋りついて自らをへと変える。


ねこねこ日本史(あさあさコンビ)編集

あさあさコンビ(メイン画像から右の灰色の子)

CV:太田悠介

ねこねこしっぽぐるぐるで天下統一を目指している。

だか86話の終盤では、再び信長の挑戦を受けると浅井に言われるが面倒だからという理由で断る。


NHK大河ドラマ編集


関連タグ編集

戦国時代 武将 朝倉宗滴 浅井長政

徳川家康:彼とは正反対の人生を送った戦国武将

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