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生没年 1525(大永5)年~1574(天正2)年


朝倉宗家10代当主・朝倉孝景の弟・景高の子。

父景高が孝景への謀反を企てて追放された(楊弓会事件)後に大野郡司職を継ぎ、一族の最長老であった朝倉宗滴が没した後に一門衆筆頭となり、11代当主・義景に次ぐ朝倉家のNo.2となった。

加賀一向一揆討伐や、1570(元亀元)年の織田信長による侵攻への迎撃指揮を執るなど義景の名代として活動してきたが、家中の権力争いで次第に義景への不満が高まっていき、1573(天正元)年8月の近江小谷城救援戦で義景の出陣命令を拒否し、所領の大野郡へ引きこもる挙に出た。

景鏡に代わって自ら小谷城救援の軍を率いた義景であったが織田軍の前に大敗。一乗谷に戻った義景に「大野郡まで撤退し、自分の軍と(同盟関係にあった)平泉寺の僧兵の力で再起をはかるべき」と進言した。

しかしこの時、景鏡と平泉寺はすでに織田に通じており、8月20日に義景が宿所とした賢松寺(福井県大野市)を包囲し自害を強要し、義景の母・高徳院や愛妾・小少将、嫡男・愛王丸らを信長に差し出し(後に処刑)、降伏を許されるとともに大野郡の領有も認められた。

織田家に降った後土橋信鏡と改名したが、翌年に織田家による越前統治に不満を募らせた住民たちによる一揆が発生。加賀一向宗の助力を得て巨大化した一揆(越前一向一揆)の前には信鏡もなすすべなく、4月14日に平泉寺もろとも滅ぼされた。


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戦国時代 中部勢 朝倉義景

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