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概要編集

朝倉氏の歴代当主の中で、「朝倉孝景」を名乗っていた人物は2人存在する。

  • 朝倉孝景(7代目)

1428年-1481年。越前守護・斯波氏の重臣で、応仁の乱を経て主君に代わり越前守護職に任命される。10代目の孝景は曾孫に当たり、彼との区別のため「敏景」の名乗りや、法名の「英林」で呼ばれる事もある。

  • 朝倉孝景(10代目)

1493年-1548年。本記事にて解説。


宗滴の補佐編集

朝倉家第9代目当主・朝倉貞景の長男として誕生。6人兄弟の長男で弟に景高(景鏡在重の父)、景郡、景紀、道郷、景延がいる。「孝景」の名乗りは前出の7代目にあやかってのものであり、7代目との区別のため法名である宗淳と呼ばれる事もある。


1512年、父・貞景が突如急死した為に19歳で10代目当主に就任。一族の朝倉宗滴の補佐を受けながらも周辺国の加賀・美濃・近江・若狭に出兵を行い、軍事的優位性、政治的影響力を相手に誇示していった。


1520年代には、当時室町幕府管領であった細川高国が地位回復を企図して孝景を頼り、当初は孝景も宗滴を中心とした軍勢を派遣するなど協力姿勢を見せていたが、やがて高国と対立し1528年3月に突如撤兵。その後も高国自ら援助を要請すべく越前へ下向するもこれを拒絶している。


1531年には宗滴を派遣して加賀一向一揆を攻撃を行い、翌年には六角家と和睦し、更には加賀一向一揆と和議を成立させた。


左に文道、右に武道編集

当時畿内勢力は戦乱が激しかったが、越前は朝倉氏の実力の内に比較的平穏であった。その朝倉氏を頼り、都から貴族、文化人等が一乗谷に避難及び滞在した。京都出兵や将軍家との付き合い、朝倉の実力に対する将軍家からの厚遇を含めて朝倉家はその軍事力に加えて社会的地位も向上させた。


一乗谷には都風の文化・社交が流入し、庶民にも馴染んでいった。また連歌師達は孝景の事を

「治世よろしく、将帥に兵法を論じて厳、詩歌を評して妙である」や「文道を左に、武道を右にした風流太守」と文武において賞賛されている。 蹴鞠は飛鳥井流伝授、和歌は三条西実隆に批評を依頼した。 更には家臣団も、武の道とは別にこの文化に親しんだことが伝わっている。


一方で「京都風文化」に集中する筈も無く家中にては当時「軍略」「剣術」の研究が盛んであったと伝えられている。 武をも疎かにしないからこそ、後に中条流を主とする朝倉家中に縁を持つ剣の道が、研鑽される事になった。


また京のさまざまな医学者を招いて、医学知識を積極的に精通した。更には明の医学書「八十一難経」を注釈し、版木本として一乗谷にて出版した。

景高と対立編集

1535年には土岐政頼と土岐頼芸兄弟の守護職を巡る闘争に関与し、政頼方に従って戦った。しかしこの頃から、父の遺領を巡って弟・景高との関係が次第に悪化する。


1539年には景高が突如反対運動を起こしたが、孝景は朝廷へ御所修理料百貫文、将軍家へ五十貫文を送り、逆に景高の追放を願い出た。9月には景高は京から追放されたが、なおも本願寺、一向一揆、若狭武田氏、尾張斯波氏らと反孝景を画策。しかしその企ても本願寺の反対により失敗に終わった。


1544年には土岐政頼の子・頼純を美濃守護に就任させる為に織田信秀と結んで土岐頼芸と斎藤道三を攻めている。


1548年、波着寺への参詣の帰途に病に倒れて死去した。享年55歳。家督は息子・延景が継いだ。


創作物における朝倉孝景編集

戦国大戦


「私は何者か?・・・生まれながらの王である!!」


Ver2.2より参戦。2.5コストでどちらも8/8の槍足軽。計略は自身と浅井・朝倉家の味方の武力が上がる。さらに味方が敵を撤退させると、自身の兵力が回復するようになるというモノ。


信長の野望

覇王伝PKから初登場。天翔記、嵐世記-蒼天録、天道-創造PKにて登場。朝倉家では宗滴に次いでかなり強いステータスを持っている。(蒼天録PKでは彼の父・貞景や特選カスタマイズご褒美武将で登場する曾祖父の敏景がその上位互換となっている。)

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