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朝倉貞景

あさくらさだかげ

朝倉貞景とは朝倉家第9代目当主で、朝倉氏景の嫡男。朝倉孝景の父。(1473年-1512年)
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斯波氏との対立編集

1473年、朝倉氏景(朝倉敏景の長男)の嫡男として生まれる。


1486年に父・氏景が38歳で急死した為に13歳で家督を継いだ。しかし家督を継いでまもなく家臣の勝手な行動があったとされる。


家督を継いで翌年、室町幕府第9代目将軍・足利義尚の勅使により六角高頼を攻める事となったが、貞景は越前に留まって大叔父の朝倉景冬を派遣した。


貞景は越前に留まった理由は既に坂本に着陣していた元主君の斯波氏当主・斯波義寛が旧家臣だった朝倉氏と同陣するのに屈辱を感じ、義尚に対し越前の守護職復帰を訴えた。


一方で貞景は義尚に説得を申し出た。その結果、幕府方は朝倉氏は将軍の直臣であるという裁定が下し、朝倉氏の越前支配が認められた。


明応の政変編集

1491年、新将軍・足利義稙(当時は足利義材)の元、再び六角攻めの勅使が下された。斯波義寛も参陣したが、貞景は出陣をせずに傍観した。この行為に義寛は再度将軍に対し訴えた。その為に一時的に貞景討伐令が出された事もあったが、結局立ち消えとなった。同年には貞景は斎藤利国の娘と婚約した。


1493年には細川政元(応仁の乱で東軍総大将として活躍した細川勝元の子)がクーデターを起こすと貞景はこれに加勢し、義材を捕縛した。しかし義材が越中公方を立てるとあっさりと義材に従った。同年10月、義材の上洛軍挙兵に呼応して加賀国より越前に攻め込んだ加賀の一向一揆や甲斐氏の軍勢と交戦、これに勝利している。


1494年には土岐政房・斎藤妙純方に加勢し、石丸利光・土岐元頼方と戦い大勝している。4年後には義尹(義材から改名)が越中国から一乗谷に入り上洛の機会を窺った。貞景は歓待するが上洛支援を拒否した。義尹は1499年、自ら上洛したが結局六角高頼の攻撃に遭って敗走。その為に大内氏を頼ることとなる。しかしこの結果、政元や加賀・本願寺門徒と対立する結果を招いた。


クーデター阻止と突然の死編集

1503年、朝倉景豊(景冬の実子)が、細川家に従っていた一族の朝倉景総(貞景から見たら叔父・この時は元景)や姉や妹の家臣や一族を通じてクーデターを企てた。ところが、そのクーデターは脆くも崩れ去った。


貞景の元に朝倉教景がこの行為を密告。貞景は直ちに軍勢を率いて敦賀城を攻撃し、景豊を滅ぼした。更に加賀からやってきた叔父の元景を破って家督を確実なものとする。更に3年後、越前に侵攻した加賀国・越中国・能登の一向一揆勢と九頭竜川で戦い、駆逐する事に成功した。


内政・軍事においての朝倉氏の戦国大名化、越前領国化を成し遂げた。これにより朝倉家の全盛期の基礎を作った貞景ではあったが・・・。


1512年、鷹狩りを行っている最中に突然として39歳の若さで死亡する。家督は彼の実子・孝景が継ぎ孝景の代で朝倉家は最盛期を迎える事となる・・・。

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