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相馬定胤

そうまさだたね

相馬定胤とは相馬家第13代当主で高胤の嫡男。父の陣没に伴い家督を継承し、宿敵・標葉氏を滅ぼして相馬家の三郡支配を固めた。(1476年-1521年)
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標葉氏との抗争編集

1476年、相馬家第12代目当主・相馬高胤の嫡男として生まれる。定胤という名は初名で改名後の名は盛胤だが、後者の盛胤だとと名前が被るのでここでは初名の定胤で統一する。


1492年、父の高胤が標葉清隆との戦いの最中に陣没。相馬家臣団は混乱を防ぐべく、小高城を守っていた子・定胤を第13代目当主に迎えた。家督を継いだ定胤は軍勢の立て直しを行い、同1492年冬に再び標葉清隆の領土に攻め入った。


まず、定胤は泉田村に陣を構える先陣の泉田隆直と対戦。しばらくして定胤は隆直に降伏の使者を派遣。隆直の返事は「前当主・清隆公は既に老いて力を失い、その子で現当主・隆成殿は凡庸な人物だった事に失望した。なのでそちらに寝返る事と致そう。」(意訳)と言って相馬家に寝返ったのだった。


これによって相馬軍の士気は高揚し、相馬軍は標葉氏の本拠地・熊野堂城を包囲した。


三郡の獲得編集

しかし熊野堂城は強固で風雪のために城攻めは思うように進まず、相馬軍は苦戦を強いられた。そこへ標葉氏分家出身の藤橋隆豊と家老・牛渡九郎兵衛尉が相馬家に内通して来たのだった。隆豊の父・隆重はかつて清隆に新山城を攻め落とされた事があり、隆豊はその事に関して清隆に恨みを持っていた。


定胤はこれを承諾。機を見て熊野堂城を攻める事となり、時期が到来すると相馬軍は熊野堂城に進撃。隆豊もこれに乗して城門を開門し、更に宝寿院の住持に命じて放火させた。これにより標葉軍は大混乱に陥り、それに合わせて相馬勢が突撃を開始した。清隆・隆成父子は自害し、ここに300年の栄華を築いた常陸大掾一族・標葉氏は滅亡した。


標葉氏を滅ぼした定胤は行方郡・宇多郡・標葉郡の三郡に及ぶ相馬家の支配権を確立。標葉郡の守として、家臣の岡田義胤を派遣して南の岩城家に備えさせた。更に相馬家に下って標葉氏の戦いで功を立てた泉田隆直と藤橋隆豊の2人に「胤」の一字と「繋ぎ駒」の幕紋を与え、相馬一門に加えている。


最後の外交編集

定胤は元々病弱であった。その為に蘆名家出身の正室からは息子が生まれずに苦慮していた。しかし1508年に側室との間に長男の顕胤が誕生すると彼を嫡男と定めた。そして定胤は「私には功績もあらず、祖父の高胤に学せよ。決して彼を私に似せてはならぬ。」と家中に命じて、隠居した。


定胤は1510年代後期から東北にて勢力を拡大する伊達稙宗から長女を顕胤の正室にして、伊達家との関係を強めようと外交強化を図った。定胤が存命中のある時、伊達家の使者として飯淵尾張守という剛の者がやってきた。相馬家中は先代当主・定胤は病の為に面会出来ない故に代わりに当主代行を務めていた顕胤の元へ案内した。


顕胤がいた場所は土蔵であった。これは当主が変わっても相馬家は兵糧に気を配って乱世への備えを怠っていないという演出を意図した事だった。これならば飯淵尾張守ならば分かってくれると判断した。


しかし飯淵尾張守は土蔵で頭を下げさせられた事を屈辱と感じて稙宗に讒言し、稙宗はかえって気を悪くしてしまい縁談の話は度々延長させられてしまう事となってしまった。


病床にあった定胤は死ぬ前に嫁の顔が見たいと強く意を発し「輿入れがならない場合は合戦に及ぶだろう。私は病躯を馬にくくりつけてでも命を投げ打つ覚悟でいる」と家中へ命じ、家臣一同も「この事を遺恨と思わざる者は百姓や女、果ては子供でもあるべからず」と決議して1521年に使者を再び送った。


これに驚愕したのは伊達家である。いつも通りに追い返そうとするが、相馬の使者は頑として動く事は無かった。稙宗はこの事に関して流石に参ったのか、輿を発たせるに至ったが、同1521年7月23日に入嫁を待たずして、定胤は病の為に45歳で死亡した。相馬家臣団は影武者を立て、縁談話終了後に定胤の葬式を執り行う事となった。


家督は長男の顕胤が継いだ。

信長の野望編集

蒼天録PKのみ登場。本作では相馬盛胤名義で登場。統率は74と高めに設定されているが、それ以外は40台のステータスとなっている。

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