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赤松政則

あかまつまさのり

赤松政則とは嘉吉の乱で滅ぼされた赤松満祐の弟・義雅の子である時勝の嫡男。赤松家を再興した中興の英主で、1代で赤松家の全盛期を築き上げた。(1455年-1496年)
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神璽奪還の功で赤松家再興

1455年、赤松家の第8代当主・赤松満祐の弟・義雅の子・時勝の嫡男として生まれる。幼名・次郎法師丸(以下法師丸)。赤松家は14年前に幕府軍に攻められて滅亡していた。その為、父の時勝と法師丸は京都建仁寺で養育されていた。

ところが、彼が誕生してまもなく父・時勝が23歳の若さで急死した。政則には母もいたが、母は早世したとされ、幼少期から不幸な生活を送っていた。

法師丸の守役は家臣・浦上則宗が務めて主従苦楽を共にした。これが後に大名家に再興した際の政則・則宗体制の原点となる。

赤松家の旧臣・上月満吉は1456年に吉野に入り、神璽に関する情報収集に務めた。これは後南朝に奪われた神璽奪還の為であった。

そして翌年、赤松家旧臣らは奥吉野に侵入し、南朝後胤とされる一の宮、二の宮を殺害した。この時に神璽も奪還した。(一度は吉野の郷民に奪われたが、再び奪回。)そして神璽は1458年に京都に戻り、その功績により法師丸は赤松家の再興が幕府から認められる事になった。

1465年12月26日、法師丸は足利義政の偏諱を貰い政則と名乗る。翌年、細川勝元による文正の政変が起こると政則は失脚するが、勝元の支援で政界に復帰した。

応仁の乱と内紛、そして山名との抗争

1467年、応仁の乱が起こると政則は細川方の東軍に付いた。政則は山名主力が京に集結している事を好機に西軍と戦いながら、家臣の宇野政秀を播磨・備前・美作に侵攻させた。わずか1年で旧領を奪回を果たす事に成功した。

しかし旧領回復を果たしたのにもかかわらず、有馬元家が謀反を起こして当主の座を狙ってきたのである。もちろん、政則は3国奪回後の翌年に元家を討った。

1474年、細川政元山名政豊が和睦。政則は戦乱の終結で奪回した3か国を失う事を恐れた為、和睦に反対した。しかし、その領国は赤松家の分国であった為に保全された。

1478年、応仁の乱が終結した頃から赤松家の播磨支配にも動揺が見られだした。それは7年前に在田氏が仙洞御料所の松井荘を横領するという事件を起こしたのである。

そして山名家との抗争が起こると毛利貞元を支援して圧迫させるが、失敗に終わる。以後、但馬攻めを行う為に計略を使い内乱を起こさせたものの、失敗。これにより1483年に松田元成が山名軍を手引きした。

山名方の赤松領侵攻が開始されると、浦上則宗より山名軍に攻められる福岡城への救援を求められると、政則は援軍を送る一方で山名氏の本領である但馬攻めに拘る。

この為、赤松軍は軍を二分して山名軍と当たるが、真弓峠にて垣屋氏を主力とした山名軍に大敗して逆に播磨へと追撃された。大敗により後詰も失敗して福岡城も陥落してしまった。

政則は生き残った家臣らと姫路を目指したが途中で行方不明になるなど大失態を演じた。もちろん、則宗は激怒。この大失態により則宗と小寺則職ら重臣らが一時的に実権を握り、政則は堺へ逃亡した。

山名家への大反撃

しかし後に政則は播磨に帰還し、則宗と和解。これにより山名軍に大反撃を行った。もちろん、山名軍は敗北して以後連敗が続いた。更に細川政元との連携を深めた事により、政豊が細川氏の援軍を得る事を事前に阻止した。

そして坂本城の戦いで勝利し、山名家の勢力を領国から駆逐する事に成功した。以後、赤松領は政則を筆頭にして浦上・別所・龍野赤松など奉行人が分担と連携しつつ行われた。

更に政則は1491年に起こった長享・延徳の乱に従軍し、11月に軍奉行となって勲功を重ねた。また1493年には洞松院(勝元の娘で政元の姉)を娶るなど活躍。

1496年2月には従三位に叙位されるが、同年4月25日に41歳で死去した。

その後の赤松家

政則の死後、赤松家では後継者問題が起こった。子に村秀があったが庶子でわずか4歳だったため、洞松院との間にもうけた子の「小めし」と七条義村を婚約させて跡継ぎとした。

政則が死去した事や義村が幼少のため、赤松家では浦上氏と別所氏による権力争いが起こり、義村の代では浦上氏の下剋上が起こり、最終的に赤松家は弱体化してしまったのである。

関連タグ

戦国大名

信長の野望

『蒼天録PK』のみに登場しているが、政則が没して権力争いや下剋上等で弱体化した赤松家の武将は、『信長の野望』シリーズでは過小評価をされている。政則も影響を受けているが、赤松家の一門では唯一内政が72と高めに設定されている。

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