概要
永享2年(1430)、管領細川持之の子に生まれる。13歳で細川京兆家を嗣ぎ、7代将軍足利義勝の偏諱を受けて勝元と名乗り、摂津・丹波・讃岐・土佐四ヵ国守護を継承した。
文安2年(1445)、16歳で管領に就任して以降、その生涯で計3回、通算21年余りその職に在任した。初就任当時の勝元は、同時期に管領を務めていた畠山持国(畠山義就の父)との対立が10年後に持国が死亡するまで続いており、その軋轢は一部の守護大名にも及び、勝元派、持国派に分かれて争う状況が続くなど、後年勃発する応仁の乱と同じような対立構造となっていた。
山名氏との協調・対立
侍所所司四職家にして九ヵ国守護を務める山名氏が細川家に拮抗する大勢力であったが、勝元はまず山名宗全の女婿となり、畠山氏の内紛にはともに畠山政長を支援し、また享徳3年赤松政則取り立てに反対した持豊を足利義政が追討しようとしたのを諫めるなど、持豊との協調によって細川氏の勢力の維持・強化を図った。しかし赤松家再興運動が本格化すると、勝元はこれを支援し、これに反対する持豊と対立するようになった。ついで寛正元年義政の信任の厚い伊勢貞親が政所執事になると、勝元は貞親と結んで斯波・畠山氏などの内紛に干渉し、義政に説いて寛正6年持豊の後援するその姻戚斯波義廉を却け、斯波義敏を赦免させた。また畠山氏の内紛については、持豊が畠山義就を支援するに至ったのに対し、勝元は畠山政長を支援し続けた。こうして勝元と持豊の対立があらわになると、東海・北陸から九州北部に至る諸大名の紛争がこの対立と結びついて、勝元派・宗全派の二派閥を形成することになった。勝元派には、諸大名では加賀半国守護の富樫政親・泰高や、飛騨・出雲・隠岐守護で四職の京極持清がついた。
また、将軍家の継嗣争いの中で、義政の弟足利義視が勝元を、義政の実子義尚の母日野富子が持豊を頼るに及んで、両党の対立は一層激化した。文正元年(1466)伊勢貞親が義視を義政に讒言して失敗し、追放されると(文正の政変)、持豊は一挙に権勢確立を策し、翌応仁元年正月、義政に迫って管領畠山政長の出仕を停め、斯波義廉を管領にした。ここに同月の政長対義就の洛北上御霊社での対戦が導火線となって、勝元・持豊はともに京都に兵を集め、同年5月26日細川方は山名方を攻撃、山名方はただちに応戦し、応仁の乱が勃発した。当初は、幕府を占拠して将軍義政を擁し錦旗を申し下した勝元方の東軍が優勢であったが、大内・河野勢が上洛して山名方の西軍に加わり、また翌2年義政が伊勢貞親を赦免して政所執事に再任したため、義視は幕府を脱出して山名の陣に加わり、両軍の勢力はほぼ互角となった。やがて両軍とも敵方の後方撹乱を行い、かつこれと結んだ国人の反乱が起り、戦局は地方に波及した。こうした戦乱長期化の状況のなかで、文明5年3月持豊が病没したのに続いて、勝元は同年5月11日同じく病没した。享年44歳。
人物像
彼の人物像として、和歌や絵画を嗜み、狩芸では鷹狩・犬追物を好むなど、多才・多趣味な人間だったという。また食通であったとも伝えられ、贅沢な生活を好んだともされる。彼の飽くなき権勢欲が幕府政治の混乱を助長し、大乱勃発の一因となったと通説では言われている。
室町期文化との関わり
幕府が積極的に保護した禅宗との関わりも深く、妙心寺の義天玄承・雪江宗深に参禅し、京都に龍安寺、分国丹波に竜興寺を創建した。龍安寺には、彼の墓所がある。また、医学(医術)にも造詣が深く、医術書『霊蘭集』を著した。
創作では
新九郎奔る
北条早雲が主人公の本作では、幼い早雲(新九郎)との関わりが見られる。普段こそ仏頂面だが、息子の政元が誕生した時には少し顔が綻んだ。
別名・表記ゆれ
右京大夫
- 聡明丸(幼名)