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日野富子

ひのとみこ

日野富子とは、室町後期の女性。公家のひとつである日野家の出身で、室町幕府第8代将軍・足利義政の正室として知られる。(1440年 - 1496年)
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概要編集

富子の出身である日野家は、元は藤原氏北家の流れを汲む公家の一つであり、室町期に入ると日野家の出である僧・三宝院賢俊が、光厳上皇からの院宣を下す仲介を通じて足利尊氏と繋がりを持ち、さらに尊氏の孫の義満を始め歴代の将軍の多くも日野家より正室を迎えるなど、室町幕府と密接な関係にある家柄であった。

富子もその例に違わず、第8代将軍の足利義政の元に嫁ぎ、応仁・文明の乱を始め混迷する情勢の中で、夫や有力大名らに代わって幕府機構の維持に奔走した。


そんな富子であるが、一方で当時から「悪女」として、民衆からの評判はひどく悪かったと伝えられている。

これは後述する将軍後継問題において、「我が子を将軍の座につけるべく謀を巡らせた」事が大乱の原因として語られてきた事、それにやはり後述する京都の関所からの収入で私腹を肥やす「守銭奴」と民衆から見做された事などが、こうした芳しからざる評価に繋がったものと見られている。

とはいえ、将軍後継問題については軍記物における虚構である事、また関所からの収入についても私財としていたというよりは、基本的には幕府の運営費や朝廷の儀式典礼の費用に当てるためのものであった事などが、近年の研究から明らかにされつつもある。さらに近年の研究ではこの膨大な財産を戦による莫大な出費で疲弊している東西両軍に貸し付けることで両陣営に対する発言権を強化し、戦いを終わらせるよう両陣営に働きかけ、応仁の乱終結の一因となったともされている。

実際のところ、文化活動に傾倒しながらも幕政の実権を手離さずにいた夫や、各々の利害を優先して内乱に明け暮れる諸大名らに代わり、手段を問わず傾きかけた幕府を建て直さねばならなかったという立場にあったと見るのが妥当かも知れないが、一方でこの時代はこうした女性の政治への参画や、利殖活動に対して快く思わない向きも少なからずおり、こうした偏見もまた富子に対する「悪女」という評価を助長していったものと考えられている。


生涯編集

将軍御台所として編集

日野家の庶流(※1)に当たる裏松家の当主・日野重政の娘として永享12年(1440年)に生を受ける。康正元年(1455年)、16歳にして足利義政の正室となり、長禄3年(1459年)には義政との間に第一子を設けている。

しかしその第一子は産まれたその日のうちに夭折してしまい、これが思わぬ波紋を呼ぶ事となった。当時、幕政にも多大な影響力を有していた一人に、義政の乳母である今参局がいたのだが、彼女の権勢に反感を抱く守護大名や、富子の大叔母で義政生母の日野重子は、第一子の死を今参局の呪詛によるものであるとして彼女を流罪に処し、やがて自害へと追い込んだのである。


その後も富子は女子にこそ恵まれたものの、肝心の嫡男を上げる事は出来ず、一方で夫の義政は寛正5年(1464年)、実弟で浄土寺に入っていた義尋を還俗させ、細川勝元を後見人に立て将軍後継者と定めた。ところがそれから間もない寛正6年(1465年)、富子も待望であった嫡男(足利義尚)を出産。この事が将軍家内部での後継者問題へと発展する事となった。

従来、この義視の擁立と義尚の誕生により、富子が実子である義尚を次期将軍とすべく山名宗全と結託、義視や勝元との間で対立が生じた事が後の大乱に繋がった、と説明されてきた。しかしこの通説は、15世紀末前後に成立したとされる軍記『応仁記』に拠るところが大きく、必ずしも実情を反映しているとは言い難い(※2)。

そもそも富子が頼ったとされる山名宗全は、伊勢貞親ら将軍側近への対抗から義視の将軍就任(と、義政の隠居)にはむしろ積極的であったという(※3)。さらに当の富子も自身が身籠っている間、妹の良子を義視に嫁がせるという、彼の基盤強化を手助けする姿勢も見せている。これについては義政・富子夫妻と義視、それに勝元や宗全ら有力大名の間で、義尚が無事に成長するまでの間の中継ぎとして、義視を立てるという形で合意がまとまりつつあった、とする見解も昨今では示されている。


(※1 富子の出生当時。程なくして富子の兄である勝光が、断絶状態にあった日野宗家の家督も継承、以降は裏松家の系統が嫡流の扱いを受けるようになった)

(※2 『応仁記』の成立過程については諸説あるものの、後年発生した永正の錯乱において、それまで対立関係にあった細川京兆家(勝元の子孫)と畠山尾州家が結託するに際し、かつては協調関係にあったという事を強調するために著されたものである、という見解が近年では有力視されている。富子と宗全の結託という通説も前述した「協調関係」という結論ありきで、細川京兆家と畠山尾州家に対するわかりやすい敵役として当てはめられたものと見られている)

(※3 逆に、将軍側近らは自分たちの立場の維持を図るべく、義視の排斥(と、義政の将軍職への留任)を強く望み、宗全らの一派と対立を深めていた)


応仁・文明の乱編集

しかしながら、この後継者問題は前述した「合意」の元で収束を見る事はなく、当時深刻化していた斯波・畠山など有力大名家の御家騒動などとも複雑に絡み、遂には幕府を二分する応仁・文明の乱の勃発という、最悪の事態にまで発展した。

この大乱において、富子は一貫して細川勝元を総大将とする東軍の側に属し、乱の最中には同じ東軍に属する武将らへの多額の金銭の貸付(※4)や、米の投機などを通じて蓄財に励み、一時は現在の価値にして60億円もの資産を有していたと伝えられている。一方で同様に当初は東軍に属していた義弟の足利義視が、伊勢貞親の復権を巡る兄・義政との確執の末に出奔、やがて西軍の「公方」として迎えられた事で、必然的に富子の実子である義尚の将軍後継者としての地位が確立する事となった。


長引く大乱は夫である義政との関係、そして幕府内における富子自身の立場を変化させる事にも繋がった。当時将軍邸宅であった花の御所には、後土御門天皇が戦火を避けるべく動座していたが、その間天皇と富子との間に密通の噂が立った事がある。実際のところ関係があったのは富子本人ではなく、彼女に仕える上臈の方であったとされるが、いずれにせよこのような噂が立つくらいには、夫婦間の関係も冷え込んでいた事が窺えよう。

一方で、その義政は打ち続く乱の収拾からは背を向け、酒宴などに浸る日々を送っていた。そのため息子の義尚が第9代将軍に就任した文明5年(1473年)頃より、富子の兄である日野勝光が「新将軍代」として、乱の収拾も含め実質的に幕政を差配する事となったものの、勝光もまた乱の終結を待たずして文明8年(1476年)に没したため、その後を受けて「大御台所」たる富子が実質的に政務を取り仕切るようになった。

富子は前述した蓄財を幕府財政の維持に役立てる一方、西軍の主力であった大内政弘への働きかけも行い平和裏に軍の引き上げを実現させるなど、混乱する情勢の収拾に尽力した。


(※4 この金銭の貸付について、『尋尊大僧正記』に記されている貸付相手が「畠山左衛門佐」である事を根拠に、東西両軍に貸付を行っていた(実際、西軍に属する武将の中には左衛門佐の通称で知られる畠山義統もいた)とする見解も根強く残っている。一方で『尋尊大僧正記』では、「左衛門督」こと畠山政長をしばしば「左衛門佐」と誤記していた事から、東西両軍へ貸付を行っていたとする批判は誤りであるとする見解も示されている)


乱後の富子編集

このように乱中乱後を通して、幕府の維持に腐心していた富子であるがしかし、その収入源のひとつたる京都七口の関銭徴集を巡って、不満を募らせた民衆が徳政一揆を起こし、関所を打ち壊しにかかるという事態が発生した。この一揆に対して富子は断固たる姿勢で弾圧に臨んだが、これにより民衆のみならず公家からも怨嗟の的となった。


富子の頭痛の種は家庭内にも存在した。夫の義政とは既にこの頃別居状態にあったが、その義政だけでなく息子の義尚とも、彼が成長するにつれて関係が悪化していったのである。依然として幕政の実権を握っていた富子は、将軍親政と権威回復を強く企図する義尚にとって最早邪魔な存在でしかなく、文明15年(1483年)には義尚が一人で伊勢貞宗の邸宅に移り、富子からの影響を脱しようとする事態も発生している。

こうして幕政において影響力を失ったかに見えた富子だが、義尚はその後近江の六角行高(高頼)討伐の最中に陣没、皮肉な事にこれが富子の幕政復帰に繋がった。我が子の早逝に意気消沈しながらも、富子は義政との協議の上で自身の甥である足利義材(義視の嫡男)を将軍後継者に擁立、幕府内における影響力を再度示した。


ところがその義材の将軍就任直前、思わぬ形で両者間に確執が生じる事となった。実はこの時、富子はかつて自らの邸宅としていた小川殿を、義材の従弟に当たる香厳院清晃に譲渡する意向を示していた。しかしその清晃は義尚亡き後の将軍後継問題において義材と競合する立場にあった事から、義材の後見人であった足利義視はこれに反発して小川殿を破却させ、富子の所領をも奪うという手段に出たのである。

この事は、当初義材を後援する姿勢を見せていた富子と義材との決定的な対立を生じさせ、やがて同様に義材と対立していた伊勢貞宗や細川政元ら幕府の有力者と富子の結託、そして彼らによるクーデター(明応の政変)の発生という結果へ繋がった。この義材の廃絶と、新将軍としての足利義遐(清晃)の擁立という前代未聞の事態が、将軍直臣らからも支持され成功裡に終わったのは、偏に「大御台所」である富子の影響があったとも考えられている。


そして政変から3年の後、明応5年5月20日(1496年6月30日)に富子は57年の生涯を閉じた。とはいえ同時代の史料にはその日時に富子が没したという事のみしか記されておらず、政変後の動向やその死因、そして最後の地などについては今もなお定かではない。

富子の墓所の一つとされる小川山常念寺自性院(現・岡山県赤磐市沢原)には、前述の義尚との対立の折に浦上則宗を通じて当地へ逃れてきた富子が、この地で庵を結んで夫や息子を慰霊しつつ余生を送ったと伝えられているが、これもあくまで伝承の域を出ない事に留意されたい。


登場作品編集

花の乱:1994年NHK大河ドラマの主人公。演じたのは三田佳子。少女時代は松たか子が演じ、テレビドラマ初出演となった。

戦国大戦:他家(西)足利軍、応仁の乱にて宴SRで登場。勝てる気がしない


関連タグ編集

藤原氏 日野家 公家 室町時代

室町幕府 御台所 足利義政 足利義尚

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