青年期
文正元年(1466年)に、室町幕府管領の細川勝元の子として生を受ける。政元の生まれた時点で、既に勝元は舅である山名宗全から養子を迎えていたが、政元の誕生に伴い勝元はこれを廃嫡し、幼い政元に細川京兆家歴代当主が名乗っていた「聡明丸」の幼名を付けるなど、誕生当初から嫡男である事を見越した扱いがなされていた。もっとも勝元はこれ以外にも分家の野州家より、養嗣子として勝之も迎えており、一時はこちらが家督を譲られる地位にあった。
政元の嫡男としての地位が確定したのは文明4年(1472年)、勝元と勝之、それに一部の家臣らが髻を切って隠居の意志を示した際であり、勝元らのこの行動は応仁・文明の乱終結に向けての取り組みの一つとして、山名氏の血を引く政元(生母は山名氏の出で、宗全にとっても外孫に当たる)を正式に嫡男とする事で、乱の手打ちと共に敵対する立場にあった細川・山名両氏の強い結びつきを内外に示す、という意味合いもあったとされる。
文明5年(1473年)、応仁・文明の乱の最中に父・勝元が急死したのを受け、わずか8歳で家督を相続。分家の典厩家当主・細川政国の補佐を受けながら政務に参加する事となる。応仁・文明の乱終結後の文明10年(1478年)には13歳で元服し、8代将軍・足利義政より名前の一字と、幕府の要職である管領職を与えられるが、義政の息子である義尚の任大将拝賀の儀礼を済ませた直後、わずか9日でこれを辞職。
以降も度々管領職を拝命こそするも、いずれも1日で辞職するという繰り返しであり、この一連の行動は応仁・文明の乱を経て、室町幕府の管領職ですらその政治的権限を失い始めていた事を象徴するかのようなものであった。翌文明11年(1479年)、丹波国内での細川氏家臣同士の争いに端を発し、当事者の一方である一宮宮内大輔が政元を拉致、以降数か月に亘って幽閉生活を送る事となる。
その後も9代将軍・義尚の下で政権の中枢を担い、長享元年(1487年)には義尚と共に極秘裏に準備を進めていた六角行高(高頼)討伐を決行するが、戦局の長期化につれて政元と義尚の間にも次第に不協和音が生じ、同年の暮れには政元が義尚の側近たちの専横を指弾、その処罰を義尚に求めるという事態も発生している。
結局討伐の成果が上がり切らぬまま義尚は、長享3年(1489年)に近江にて陣没。この事態を受けて政元は次期将軍候補に、義尚の従兄に当たる香厳院清晃(後の足利義澄)を推挙する。しかし義尚の母である日野富子と前管領・畠山政長の推挙もあり、義尚の従弟の義材(足利義視の子)が10代将軍に就任。将軍継嗣問題は政元の目論見に反する結果に終わったのである。
明応の政変
こうした経緯や、義材の父である義視がかつての大乱で東軍から西軍に鞍替えしたという過去もあり、政元と新将軍との関係は当初より冷え切ったものであった。また義材の将軍就任により、当初より義材と協調関係にあった畠山政長が俄かに権勢を振るい始めるようになり、以降両者は義尚の死で中断していた六角討伐を始め、積極的な外征で将軍権威の回復に邁進していく事となる。
しかしこうした義材の姿勢は、政元に政務を任せるという当初の約束を反故にするものに他ならず、さらに政長や、同じ細川氏の庶流の出である細川義春(之勝)など、自身と競合する立場にあった者たちの重用(※)により、義材への不信感を一層募らせるばかりであった政元は、義材の就任儀式の際に管領を務めながらも1日で辞任し、やがて幕政からも距離を置き始めるようになった。
そして同じく幕政から距離を置いていた伊勢貞宗や政長の宿敵である畠山基家(畠山義就の嫡男)、そして将軍擁立の立役者ながら急速に義材との関係を悪化させていた日野富子らと結託の上、水面下で義材の廃嫡を画策しつつあった。
そして明応2年(1493年)4月、遂に政元ら一派は決起し、義材や政長らが河内へ出兵した隙を突いて京都より義材派を一掃すると、清晃を還俗させ第11代将軍に擁立したのである。背後からの攻撃を受けながらなおも抵抗を続けていた義材も、領国・紀伊からの援軍を頼る事が出来ぬまま政長が自害し、他の近臣の多くからも見放された事で勝ち目無しと悟り、細川家臣・上原元秀に投降し龍安寺にて幽閉の身となった。
後世「明応の政変」と呼ばれるようになるこのクーデターは成功裏に終わり、義尚・義材と二代の将軍の下で回復に向かいつつあった将軍権威はここに決定的な失墜を迎える事となった。そして政元はこれ以降、世間からも「半将軍」とあだ名されるようになるなど、幕府の事実上の最高権力者と見られるようになったのである。
※細川義春は改名に際して将軍・義材より「義」の一字を与えられているが、これは義春の出身である阿波細川氏はおろか、本家たる京兆家の当主にすら前例のない出来事であった。また義材は後に義春の邸宅に居を移しており、この事からも細川一族内における政元への対抗馬として、義春を重要視していた事が窺える。
京兆専制
・・・と記すと、政元が将軍を傀儡として幕政の実権を握ったように思われるが、実際のところその後も幕政に関しては義政時代からの重鎮・伊勢貞宗の影響を無視出来るものではなく、さらに政元が将軍に据えた足利義澄も長ずるにつれて将軍親政を志向し、度々政元との衝突を繰り返すようになるなど、必ずしも政元の意のままに事が進んだ訳でもなかった。
そもそも京兆家内で政変に主導的だったのは政元よりもむしろ前出の上原元秀であり、政元が政変へ加担した動機はあくまで前将軍・義材の河内征伐により、自身の分国である摂津にも混乱が飛び火する事、また基家の討伐によって畠山氏の再統一がなされる事を懸念したからではないか、と指摘する見解もある。
政権の外に目を向けても、将軍の座を追われた足利義材が越中へ亡命し、当地にて独自の政権を樹立していたのは、政元にとって頭痛の種の最たるものであった。両者の和平交渉が決裂した明応8年(1499年)夏には、義材改め義尹が北陸の諸勢力を糾合して京都を脅かし、これに比叡山延暦寺や、紀伊にて逼塞していた畠山尚順(政長の遺子)も呼応するという事態が発生した。
このように方々からの反攻に見舞われた政元であったが、義尹軍に対しては近江の六角高頼(行高より改名)の助力も得てこれを打ち破り、また延暦寺に対しては大規模な焼き討ちを断行(一説ではこの焼き討ちで既に伽藍・堂塔の大半は失われており、後年の織田信長による焼き討ちは規模としては極めて限定的なものであったのではないか、という見方すらある)するなど、苛烈な対応をもって臨んでいる。
さらにその勢いに乗じ、同年末には政元配下の赤沢朝経が畠山尚順を破ると共に大和へ侵攻、当地の尚順派の国人衆をも一掃し大和北部を細川氏の支配下に置いた。大和のみならず、周辺諸国の国人を細川氏の被官として組み込むなど、この一連の軍事行動によって細川氏の勢力は大幅な拡大を見る事となる。
修験道への傾倒と三人の養子
このように着々と細川氏の勢力拡大が進む裏で、家中では深刻な問題の火種をいくつも抱えていた。そもそも政元は気分屋な性格の持ち主で、武家の習わしであった烏帽子も日常的に被らなかったり、突如政務を放り出して諸国放浪の旅に出ては、幕政を大いに混乱させる事もしばしばあったと伝えられている。また若い頃より政元は修験道や山伏信仰にも傾倒しており、天狗の術を体得しようと怪しげな修行に勤しむなど、周囲を困惑させる奇行も少なくはなかったという。
後世「奇人」「変人」「魔法使い」などと評されるようになった由縁も、また前述の義澄との政治的な衝突も、こうした政元の気質や奇行によるところが大きいとされる。もっとも、諸国放浪には各国の守護との関係強化など、政治的な意味合いも多分に含まれており、修験道についても山伏たちを自らの耳目として諜報活動に当たらせていたりと、必ずしも単なる趣味とは言えない節も見受けられる。
修験道が女人禁制を是としていた事もあり、政元は生涯独身を通した。当然実子もいない政元は、40歳になるまでに他家より次の三人の養子を迎えている。
- 細川澄之・・・五摂家の九条家出身。前出の将軍継嗣問題に絡んで最初に迎えた養子であるが、後に廃嫡。
- 細川澄元・・・細川一門の讃州家出身。澄之に代わる嫡男として迎えられる。
- 細川高国・・・細川一門の野州家出身。養子は自称であるという説もあり。
三人も養子がいるという状況は、必然的に当人達(と、それぞれの家臣団)の間での対立を生じさせるものであり、永正年間に入るとその対立は次第に先鋭化の一途を辿る事になる。とりわけ澄元が実家より率いてきた阿波出身の家臣団と、従前より政元の下で政権運営に当たっていた「内衆」と呼ばれる重臣達との対立は極めて深刻なものがあった。
永正の錯乱
そんな養子たちの対立を尻目に、その後も政元は細川氏の勢力拡大に尽力し、一時は丹後・紀伊・若狭をもその版図に収めんとするなど、細川京兆家は正に全盛期を迎えつつあった。しかし一向に終わりの見えない内外での戦乱に嫌気が差したのか、あるいは予てからの修験道への傾倒を拗らせたのか、ともあれ政元は修験者として奥州で廻国修行をしたいと、例によって唐突に言い出すようになる。
この廻国修行は家臣らに諌められる形で断念するも、その後も修験道への没頭は留まるところを知らず、外征より一時帰国していた永正4年6月23日(1507年8月1日)にも魔法を修する為と称し、自邸の湯屋にて行水を遣っていた。ところがその最中、政元は後継者争いで劣勢にあった澄之派の内衆・香西元長らの襲撃を受け殺害されてしまう。享年42、半将軍とも称された権力者としてはあまりにも敢え無い最期であった。
政元の死によって細川京兆家の血筋は絶える事となり、後継者争いもいよいよ激化し武力衝突にまで発展。政元を死に追いやった澄之とその一派は澄元と高国の結託により早々に滅ぼされ、澄元が家督を継ぐ事で一応の決着を見たものの、この混乱に乗じて山口に逃れていた足利義尹とその庇護者である大内義興が挙兵。さらに澄元との対立から高国が義尹方に鞍替えして澄元を追い落とすなど、京兆家内の抗争はその後も将軍家の争いとも絡んで、実に数十年に亘って続く事となる(両細川の乱)。
評価
江戸時代になって制定された戦国三大愚人では、今川氏真、大内義隆とともに名を連ねる。だが近年の再評価により、上記の2人は大きく見直されてきている。細川政元も見直される日はそう遠くないだろう。