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大内義興

おおうちよしおき

大内義興は、中国地方の戦国武将。周防を始めとする7か国の守護職を務め、さらに室町幕府の管領代として、10代将軍足利義稙を後見。大内氏の最盛期の礎を築いた(1477年 - 1528年)。
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家督相続編集

大内氏14代目当主・大内政弘の子として文明9年2月15日(1477年4月7日)に生を受ける。幼名は父を始め歴代の当主が名乗った「亀童丸」であり、義興を名乗るのは長享2年(1488年)、京都にて元服の折室町幕府9代将軍足利義尚からの許しを得てからの事となる。明応元年(1492年)には父・政弘の名代として六角行高(高頼)討伐に参戦、在京中の翌明応2年(1493年)に発生した「明応の政変」の折には、政変を主導する細川政元らへの支持を打ち出しつつも、兵を兵庫に引き上げ事態の推移を見守る事となる。


明応3年(1494年)の秋には政弘が持病の中風の悪化により隠居、これに伴い15代目当主として家督を継ぐ。しかし家督継承直後の大内家中では、家臣である陶武護の「義興の弟である大護院尊光(後に還俗し大内高弘と改名)の擁立を企図している」という讒言に端を発して、長門守護代を務めていた内藤弘矩親子が誅伐されたり、明応8年(1499年)にはやはり重臣である杉武明が、やはり尊光を擁して謀反を画策するなど、不穏な動きも散見された。


これに対して義興は、前者を後に弘矩の潔白が証明された事で逆に武護に死を命じ、当主不在となった陶・内藤両氏の家督を陶興房(武護の末弟、晴賢の父)と内藤弘春(弘矩の弟)にそれぞれ継がせる事で事態を収拾。また後者も先手を打って武明を自害に追い込み、尊光を豊後に追うなど、一連の騒動を機にこれら重臣の力を削ぐ事で家中の安定を図ってみせた。


九州進出~義尹保護編集

義興の代以前からも、大内氏は1世紀近くに亘って北九州で少弐氏や大友氏など在地の勢力と抗争を繰り広げていた。父・政弘は豊後の大友親繁の長男・大友政親に妹を嫁がせ、大友氏と協力関係を構築していた。ところが明応5年(1496年)に義興の従兄弟に当たる大友義右が急死し、その父で義右と対立関係にあった政親が実権を回復した事で両者の協力関係は瓦解を迎えてしまう。政親は後に義興に切腹に追い込まれるも、その後を継いだ大友親治(親繁の五男)や子の大友義長は権力基盤の確保の為、大内氏の勢力拡大を懸念した細川政元や室町幕府11代将軍・足利義澄らと通じて引き続き大内氏との対立姿勢を打ち出しており、そこに先の家督相続の折に追放された大内高弘も客分として身を寄せるに至って、両者の対立は決定的なものとなっていった。


またこれに呼応する形で、当時大内氏の支配下にあった筑前を回復すべく旧主の少弐政資父子が挙兵するも、明応5年の末から翌春にかけて義興はこれを打ち破り、逆に政資を肥前にまで追い詰めている。その後も少弐氏と対立関係にあった九州探題の渋川氏を支援し、肥前における大内氏の勢力拡大に努めている。一方の少弐氏も大友氏との連携で反攻の機会を窺う事となる。


前述の通り、当時の室町幕府は大内氏の勢力拡大に対する懸念を抱いていたが、それ以上に大きな不安だったのが前将軍・足利義尹と大内氏との結託であった。元々義興の父・政弘は応仁・文明の乱の折、義尹の父である足利義視を擁した西軍に与しており、その縁で義尹が大内氏を頼る可能性も十分にあったのである。果たしてその不安は的中し、明応8年(1500年)末に義尹は山口入りを果たし当地にて政権を樹立、義興もこれを庇護する姿勢を示した。


事ここに至り、幕府は朝廷より義興討伐の綸旨を得た上で、大友氏を始めとする九州の諸勢力、さらに西日本の大名・国人に「朝敵」である義興討伐を命じた。しかし九州方面では大友・少弐の反攻を巧みに退け、中国地方でも安芸の国人・毛利弘元毛利元就の父)を自陣営に引き入れるなど、戦局は大内氏優位のまま推移する結果となった。


上洛~中央政界の一人者へ編集

永正4年(1507年)、後継者争いに端を発した細川政元の暗殺(永正の錯乱)を機に、情勢は俄かに義興・義尹の側に有利に転じていく。中央での混乱を好機と見て取った義興と義尹はすぐさま九州の諸大名と和睦し、九州・中国の諸大名を動員の上進軍を開始。政元の養子の一人であった細川高国が、幕府を裏切り協力を申し出た事も追い風となり、翌永正5年(1508年)に義興と義尹は強大な軍事力を背景に将軍・足利義澄と細川澄元らの一派を追放、7月に義尹が将軍職に復帰したのに伴い、義興も左京大夫・管領代として幕政の中枢に携わる立場となった。


義尹の将軍復帰が成った事で義興も役目を終えたかに見えたものの、その後も前将軍・義澄や細川澄元らの反攻は続いており、領国の安定のために帰国を望む義興の意志とは裏腹に、しばらくの間は畿内への在留を余儀なくさせられた。各地を転戦しつつ、領国である周防にあった東大寺国衙領を巡る紛争にも直面するなど、義澄派との抗争以外でも難しい状況に立たされながらも、永正8年(1511年)には船岡山での澄元軍との決戦を制し、一時は義澄派に奪還されていた京都を再度義尹の手に取り戻す事に成功するのである。


この結果、義尹政権は一時的な安定を見る事となり、またこの時の目覚ましい活躍が評価され、永正9年(1512年)3月には朝廷より従三位の位階を贈られ、公卿に列せられるという栄誉を得ている。さらに永正13年(1516年)には大内氏に対し、恒久的な特権として日明貿易の管掌権限も与えられるなど、周防を始めとする7ヶ国の守護である事も併せて、一時は「天下人」にも手の届く立場にあったとも言われている。


しかし、そんな立場にあってもやはり第一に考えていたのは守護職という立場としての領国の安定に他ならず、また義尹改め義稙や、細川高国とも政権運営の中で不協和音を生じつつあった事から、その心は徐々に帰国へと傾くようになっていった。このような状況に止めを刺すかのように出雲の尼子経久の侵攻が始まり、当初は在京のまま石見の諸豪族と手を組んで尼子氏の勢力拡大を抑止しようとした義興も、石見の混乱に乗じて安芸の武田元繁が不穏な動きを見せていたこともあり、最終的には管領代を辞して山口に帰国するに至る。永正15年(1518年)秋の事であった。


義興の帰国により義稙の軍事的な後ろ盾が失われた事は、やがて残された義稙と高国との間での深刻な対立、そして政権の崩壊を引き起こす引鉄の一つともなった。


尼子氏との抗争~大内氏最盛期の礎編集

帰国後から晩年に至るまで、義興は尼子氏との抗争に注力する事を余儀なくされた。石見においては海運の要所であった波志浦など重要な拠点を尼子氏に抑えられ、領国の一つであった安芸でも反大内勢力の一つであった武田元繁が、既に国人一揆の盟主であった毛利氏との戦いで討たれていた(有田中井手の戦い)ものの、その毛利氏を尼子経久が自陣営に引き込む事で安芸国内での勢力を拡大しつつあった。


これに対して義興は連年のように安芸・石見の両国に出兵し、一進一退の攻防を繰り返す事となる。一時期は劣勢だった大内軍も、大永4年(1524年)に入ると安芸の桜尾城、佐東銀山城の攻略、そして尼子氏に与していた毛利氏も元就が家督を継いだのを機に大内氏に再度帰参した事で、安芸での足がかりを再び構築。さらに石見方面の勢力も回復しつつ、尼子氏と対立関係にあった備後守護の山名氏と結託し、備後における戦いでは陶興房率いる軍勢が尼子軍を撃退している。


各地での抗争に追われる中、享禄元年(1528年)夏に安芸攻略の最中に病を発した義興は、山口に帰還して間もない同年12月20日(1529年1月29日)に息を引き取った。享年52であった。戦に次ぐ戦の晩年ではあったものの、その間に勢力を着実に拡大し、後を継いだ嫡男・義隆の代に至って、大内氏の最盛期を迎える上での基盤を確立したのも義興の働きあってのものであった。


また戦だけに留まらず和歌や連歌を嗜むなど、父譲りの文人的な素養も多少なりとも備えており、さらに以前からの東アジアとの交易も盛んに行いつつ、周防帰国後の永正17年(1520年)には勅許を賜った上で、伊勢神宮を勧請し高嶺太神宮(現・山口大神宮)を創建するなど、文化的な取り組みも精力的に行っていた。


関連タグ編集

歴史 日本史 戦国時代 戦国大名 戦国 武将

天下統一 信長の野望 太閤立志伝

創作戦国 萌戦国武将

中国地方 山口県

細川俊之 - 1997年放送のNHK大河ドラマ 『毛利元就』にて義興役を演じている。

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