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大友親治

おおともちかはる

大友親繁の五男。兄・政親と甥の義右の相次ぐ死により、第18代当主として子・義長や孫・義鑑と共に大友家の戦国大名化への礎を築いた。(1461年-1524年)
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兄・政親を助ける編集

大友家第15代目当主・大友親繁の五男。兄に第16代目当主となった大友政親(1444年-1496年)らがいる。


初めは肥後国の瑞光寺に入り、僧侶として働くが1473年に父・親繁が隠居して兄・政親が家督を継いだ頃に還俗した。


当時の大友家は大内家の干渉を受けていた故か、内紛が絶えずにいた。更に一族の大友親実(大友家第13代目当主・親綱の子。大聖院宗心)の策謀によって1484年頃から、政親と義右の対立が続いていた。


一度は1487年に和睦するが、1489年に親治の兄で政親の弟である大友親胤(日田親胤)が、兄の政親や甥の義右(1459年-1496年)に対して謀反を起こしたときは、兄や甥を助けて親胤の反乱を鎮圧した。


しかし親胤の謀反は政親の差し金であった事を宗心から知った義右は再び政親と対立。この結果、再び内紛が勃発して激化する事となった。


兄と甥の相次ぐ死と家督継承編集

1496年、兄・政親が筑前に逐電してまもなく甥の義右が37歳の若さで死亡。その結果、大友家内紛の火種は更に大内家までに広がった。


政親の妻は大内政弘の妹で、政弘の子で義右の従弟でもある大内義興は「政親が義右を毒殺した」という噂を聞いて激怒。大内義興は大軍勢を率いて政親を攻撃する事を企てた。政親は大内軍との決戦の為に立花山城に向かったが、その矢先に遭難。そして運悪く赤間関にて大内家臣・杉信濃守に捕縛されたのちに処刑された。


この事を聞いた親治は反大友派の勢力を弾圧した後に兄に代わって大友家の家督を継承し、第18代目当主に就任した。そして翌1497年には細川政元足利義澄に通じて家督の地盤を固めようとした。


大友家の戦国大名化と後継者たちの補佐編集

ところが、再び大内義興が宗心を後継者として擁立し、干渉を行った。しかし親治はこの行為に屈さずに徹底抗戦する事を決意。そして1498年に豊前国下毛郡の戦いで大内軍を破って宗心を追放する事に成功。これによって大友家の戦国大名化を成し遂げる事に成功した。


戦国大名になった後は弟・親常を日田氏に養子入りさせ、末弟・治直を母の実家である竹中氏に入嗣させるなど、一門の強化を図っている。


1501年に子・義長に家督を譲って隠居したが、実権は掌握し続けた。1509年には菊池武経の援軍要請を承諾し、家臣・朽網親満に命じて菊池政隆を捕縛させた。


1518年には子・義長が自身に先立って40歳で死去するという不幸に見舞われたが、義長の子である大友親安(義鑑)を6年間補佐し続け、1524年に63歳で死去した。


信長の野望編集

蒼天録PKのみで登場。子・大友義長とは知略の差で劣っているが、総合能力ではこちらが勝っている。また能力値がデフレ化した蒼天録では孫・大友義鑑や曾孫・大友宗麟よりも上である。

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