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大友義鑑

おおともよしあき

大友義鑑は、九州地方の戦国武将。大友氏の版図拡大に尽力し大内氏などの外敵とも巧みに渡り合ったが、晩年後継者問題を引き起こし、これが自らの死へと繋がった。(1502年-1550年)
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家督継承

文亀2年(1502年)、豊後大友氏の第19代当主・大友義長の長男として生まれる。初名は親安で、後に親敦と改名。弟に大友重治、子に義鎮(宗麟)晴英(大内義長)など。父・義長の隠居に伴い、永正12年(1515年)に第20代目当主となり、若年であった事から当初は父が後見を務めた。永正15年(1518年)には、義鑑の当主就任に不満を持っていた家臣・朽網親満が、義鑑の大叔父に当たる大聖院宗心を擁立し反乱を起こしたが、逝去した義長に代わって義鑑の後見となっていた祖父・親治らによって鎮圧されている。

15世紀半ばより長らく内紛が続いていた大友氏も、父・義長の時代までにこれを収拾し、分国法の制定などにより戦国大名への脱皮を図りつつあった。そして義鑑の時代に至って積極的な領土拡大へと打って出るようになり、まず手始めに強敵がいない肥後に勢力拡大を図った。

肥後を巡る戦い

この頃の肥後は名門・菊池氏の統治下にあったが、かつての大友氏と同様に家督を巡る内紛が長年続いており、父・義長の頃より既に乗っ取り工作に着手していた。義鑑もこれを引き継ぎ、時の当主であった菊池武包を追放すると、弟の重治を武包の名目上の養子として送り込み、菊池家を継がせたのである。追放された武包はその後も抵抗を続けるも、義鑑は阿蘇氏との連携によりこれを退けている。

しかし菊池家の当主となった重治は、大友氏の家督に未練があった上兄とも折り合いが悪く、やがて菊池義武と名を改めた後周防・長門の大内義隆や肥後南部の相良氏と結託、天文3年(1534年)に反旗を翻す事となる。一時は劣勢に立たされた義鑑であったが、天文7年(1538年)に幕府の仲介もあって大内氏と和睦を結ぶと、支援を失った義武を肥前へと追放。そして天文12年(1543年)には肥後守護に任命され、肥後の直接統治に乗り出す事となる。またこの頃養子を失った大内義隆の依頼に応じ、次男の晴英を義隆の猶子として送り出しているが、この縁組は後に解消されている。

二階崩れの変

晩年、義鑑は長男・義鎮を廃嫡し、自身が溺愛していた三男の塩市丸を次期当主に据えようと画策するようになる。日頃より粗暴な振る舞いの多い義鎮の気性を義鑑が疎んだからとも言われるが、一方で義鎮が大内氏の血を引いていた事もあり、家中から大内氏の勢力を除くための企てという側面もあったとされる。

これにより家中が義鎮派と塩市丸派に分かれ内紛が起こる中、義鑑は側室(塩市丸の母)、それに義鎮の傅役であった家臣・入田親誠と共謀し、小佐井大和守鎮直斎藤長実ら義鎮派の主要家臣を次々と謀殺していった。しかしこの動きが却って義鎮派の危機感を必要以上に煽る結果となり、天文19年(1550年)には逆に義鎮派による府内の大友館への討ち入りが発生。津久見美作田口新蔵人鑑親らの襲撃により、館の二階で就寝していた塩市丸と生母、そして2人の娘は殺害され、義鑑も津久見、田口の両名を討ったものの深手を負ってしまう。自身の死を悟った義鑑は義鎮を居城に呼び寄せると、領国経営に関する置文を残し程なくして死去した。時に天文19年2月12日(1550年2月28日)、享年49であった。

義鑑の死後、家督を継いだ義鎮は入田親誠を一連の件の黒幕として討伐、親誠は阿蘇惟豊の下へ身を寄せるも後に謀殺の憂き目に遭っている。さらに襲撃の実行者である津久見、田口両名の一族も主君を討った罪により処罰され、「二階崩れの変」は追い詰められた義鎮派の一部による暴走という形で幕引きがなされる事となった。とはいえ領国経営に関する置文を始め不自然な点も多々見られ、近年では義鑑は襲撃のあった10日の時点で死亡していたとも、またこの一件とは無関係とされた義鎮が裏で動いていたとする見方も出てきている。

信長の野望

覇王伝PKから登場。天翔記PK-蒼天録、創造PKに二階崩れの変がイベントとして実装されている。

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