1度目の大内家入り(猶子解消)
1532年頃、豊後を支配していた大友氏第20代目当主・大友義鑑の次男として誕生。兄に第21代目当主の義鎮(宗麟)、弟に塩市丸がいる。幼名:塩乙丸で初名は大友晴英。
天文12年(1543年)、尼子攻めの退却戦の最中に、父の同盟相手である大内氏の当主・大内義隆の養子であった大内晴持が不慮の事故で死去。後継者を失った義隆は甥に当たる(塩乙丸の母は義隆の姉であった)塩乙丸を後継に迎えたいと大友氏に申し入れ、これを受けて翌天文13年(1544年)、12歳の時に大内氏に養子として迎えられた塩乙丸は、大友晴英と名乗って元服したとされる。
亡くなった大内晴持が養嗣子であったのとは異なり、晴英は猶子という扱いで迎えられたため、義隆にとっては子が生まれない場合に家督相続人とする含みを持っていたが、大友家はこれを承諾し歓迎した。ところがそれから間もない天文14年(1545年)、義隆に実子・義尊が誕生した事で、晴英は猶子関係を取り消されて豊後に帰国した。
実家に戻った後の天文19年(1550年)には、異母弟の塩市丸を当主に据えようとした父・義鑑と、嫡男であった同母兄・義鎮との間で「二階崩れの変」が勃発しているが、この時も晴英は家督争いに関与した形跡はなく、蚊帳の外に置かれたも同然の状態であった。
2度目の大内家入り(当主就任)
やがて大内氏の内部で武断派と文治派の抗争が深刻化する中、天文20年(1551年)に大内氏家臣で武断派の陶隆房が義隆への謀反を画策。その際、隆房は「新当主として晴英殿を迎えたい」と、水面下で大友氏に働きかけを行った。
この働きかけに対し、兄・義鎮はあくまで晴英が傀儡として擁立されるに過ぎないと見て取り、度重なる戦乱や内紛で親族の数が激減していた大友家の内情に懸念を抱いていたこともあって「ゆくゆくは晴英が廃位されるのでは無いか」と反対するが、当の晴英は「この話をお断りすれば周囲から中傷を受ける事となり、中傷を受けて後悔するならば私は命を惜しまない」(意訳)と説得し、最終的に義鎮も諦めこれを認めた。
そして同年9月、大寧寺の変で大内義隆・義尊親子が滅ぼされると、家中での混乱の収束を待って翌年に晴英は山口館に入城、大内氏の第32代目(17代目とも)当主として擁立された。山口入りに際しては当主としての正統性を示す意味合いもあり、大内氏の故事に倣って多々良浜(現・山口県防府市)を経由して向かったとされる。当主に就任して間もなく、晴英は自身の当主擁立に尽力した隆房に一字拝領を許し、晴賢と改名させている。
翌天文22年(1553年)には室町幕府13代将軍・足利義輝の偏諱を受けて大内義長と改名し、これまでの大内氏当主と同様に、従五位下左京大夫に叙任された。天文23年(1554年)には晴賢に反発し、主君の敵討ちを称して挙兵した津和野の吉見正頼を討つべく出陣(三本松城合戦)し、半年に渡る籠城戦を経て、正頼の子・広頼を人質として迎え入れる事で和睦した。
しかし大内一門とはいえ養子関係を解消された経緯から、義長に対する家臣団の求心力はお世辞にも高いとは言えず、実質的には晴賢が家中の実権をほぼ掌握し、当主とはいえ義長は晴賢の傀儡に過ぎないという、先に兄・義鎮が懸念していた通りの状態にあった。また弘治2年(1556年)には、それまで大内氏が行ってきた勘合貿易再開のため明に使者を派遣するも、明からは正統な大内氏当主として認められず貿易再開を果たせなかったなど、対外的にも正当な当主として認められていない節もあった。
悲劇の最期
そんな大内氏より独立を果たそうと画策していたのが、安芸の毛利元就であった。前述の吉見討伐の最中の天文23年5月、安芸国内の国人たちの取りまとめを巡る晴賢との対立をきっかけに、大内・陶と訣別した元就は安芸国内より大内氏の勢力を一掃、厳島など重要拠点を瞬く間に押さえた。晴賢は吉見討伐の終結を待って元就に攻勢をかけるも、元就は巧みな調略と防備をもってこれをしのぎ、1年後の天文24年(1555年)秋に晴賢を厳島の戦いで打ち破ったのである。
ただでさえ晴賢の謀反やその後の内乱で弱体化していた家臣団は、この敗戦と晴賢の死を機に完全に崩壊。家臣同士での暗闘が繰り広げられる中、求心力に欠ける義長にこの状態を収拾できるはずもなく、先代・義隆の下での最盛期から一転、大内氏は急速に衰退していく。義長は兄・義鎮に援軍を要請するが、義鎮は既に毛利家と大内領分割の約定を結んでいた為これに応じなかった。これにより義長は孤立無援の状況となり、いよいよ進退窮まる事となった。
厳島の合戦から間もない弘治元年(1555年)11月より、毛利軍は大内領への侵攻を開始。1年余りの間徐々に追い詰められていった義長は、重臣・内藤隆世と共に未完成であった山口の高嶺城に籠城、わずかな手勢で毛利軍と戦うも山口は防衛には不向きな地形であり、やがて高嶺城を放棄し堅城であった且山城へ撤退した。しかし毛利軍の攻撃はなおも収まらず、遂に且山城は包囲された。
内藤隆世は毛利軍からの申し出に応じ、自らの命と且山城の開城とを引き換えに主君・義長の助命を取り付けている。しかし自刃した隆世の願いもむなしく毛利軍は開城後、下関の長福院(現・功山寺)に入った義長を包囲して自害を強要し、弘治3年4月3日(1557年5月1日)に義長は26歳の若さで自害して果てた。
義長の死を以って、平安時代より続いた西国の雄・周防大内氏はここに滅亡を迎えた。しかし義長の死から程なくして、大寧寺の変を生き延びた大内義隆の遺児の一人・問田亀鶴丸(大内義教)が大内氏の遺臣によって担ぎ出された他、永禄11年(1568年)にはかつて大内義興と家督を争い追放された大内高弘(尊光)の子・大内輝弘が大友家に唆されて周防に攻め入るなど、その後も大内氏の生き残りが度々毛利氏に反攻を試みている。
各メディアにおける大内義長
能力はかなり低めでシナリオによっては大名となっているので、難易度は高め。
武器:槍(3) 刀剣(4) 声:岡本寛志
「この境遇を恨むことはない…精一杯、やるだけだ!」(特殊台詞)
3Empriesより初登場したが、4Empriesでは何故か浪人となっている。