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尼子晴久

あまごはるひさ

尼子晴久は、中国地方の戦国武将。祖父・尼子経久が築いた正と負の遺産を同時に受け継ぎつつも、権力基盤の強化による中央集権化に取り組み、出雲を始めとする山陰・山陽8ヶ国の守護職を務め、尼子氏の最盛期を築いた(1514年-1561年)。
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人物(史実)編集

出雲を中心に一大勢力を築いていた戦国大名・尼子氏の第5代当主。元服後の初名は「詮久(あきひさ)」と称しており、「晴久」と改名したのは天文10年(1541年)、室町幕府12代将軍・足利義晴より偏諱を受けてからの事である。

晴久が家督を継いだ頃、尼子氏は周辺諸国との抗争や内乱によって、家中の統率や国内の権力基盤に致命的な問題が表出し始めており、晴久の治政は偉大過ぎる先代の跡継ぎという重責の中、こうした諸問題との戦いを通じて、中世的な統治体制から近世的な大名への脱皮を図る事に全力を尽くしたものであった。

これらの点においては敵対する立場にあった毛利隆元だけでなく、後の武田勝頼などとも共通するものがあるとも言える。


対外的には経久時代からの仇敵であった大内・山名の両氏を始め、周辺の諸勢力との戦いに明け暮れ、既存の領土であった出雲、隠岐、西伯耆、北備後のみならず、備中・備前、さらには播磨東部をも支配下に収めるなど、その版図は先代の頃よりもさらに拡大。後の幕府からの守護職補任・相伴衆任命などもあって「八カ国守護」とまで呼ばれる程の最盛期を築き上げた。

晩年には尼子氏にとって、経済面での最重要拠点である石見銀山の防衛にも力を入れており、これを存命のうちに周辺諸国から守り切るに至っている。


内政面においては自らの勢力基盤の弱点を見抜き、その上で傘下の国人衆の直臣化・奉行化などを通して、旧来の権力基盤からの脱却を目指し、中央集権化と領内の直接統治を推進。その対象は国人衆のみならず、当時出雲国内で独自の勢力を持っていた杵築大社(現・出雲大社)にも向けられ、大社と競合する立場にあった日御碕神社への支援や、大社宮司を務める千家・北島両氏などへの介入を通じて、大社やその門前町を支配下に置こうと腐心している。

さらに日御碕神社が有する宇竜港を拠点に、当時の貿易中心であった日本海ルートの貿易航路を最大限に用いて国内では若狭商人との繋がりを強化、国外では明や朝鮮、南蛮との対外貿易を積極的に展開させて出雲の発展に貢献する等、大内氏に負けず劣らずの商業政策も実施していた。


秋上は 富高らかに 相かして 思うことなく 長生きせん」という和歌がある。これは「秋上氏・富氏・別火(財)氏が相和して、思う事なく(争いが無くなり)皆長生きするだろう」という意味であり、かつては祖父の経久が詠んだものと見做され、尼子氏の研究に取り組んでいた郷土史家から「人徳の将である経久らしい」と絶賛された。しかし実際にこの和歌を詠んだのは晴久であり、出雲神官である三氏の和解を喜んでのものであった。

また天文23年(1554年)には、月山富田城に連歌師である宗養を招いて連歌会を行うなど、文化の隆盛を図った形跡もあり、これらの事績は晴久が武辺一辺倒ではなく、一定の水準以上の文化的素養も備えていた事の証左と言えよう。


先代である経久の目覚ましい事績との比較や、大叔父・尼子久幸から「短慮で大将の器に乏しく、血気にはやって仁義に欠けている」と評された逸話などもあり、長らく晴久の事績は過小評価されがちであったが、近年の研究から前述したような施策などにも光が当てられ、決して凡将などとは言えない武将である事が明らかにされつつある。

とはいえ、晴久の施策が必ずしもプラスにばかり働いた訳でもない。彼の推し進めた中央集権化政策は、裏を返せば傘下の国人衆がそれまで有していた独立性を否定するものでもあり、かつその過程において反抗する国人を追放・退転・粛清に追いやる事もあったため、彼らからの反感も少なからず存在した。また叔父の尼子国久を筆頭とする「新宮党」の粛清で、懸案だった出雲国内の直接統治もほぼ成し得たものの、それと引き換えに有力な親族衆を多数失う事にもなった。

この国人衆への圧迫による関係性の歪みと不満、そして家中を支える有力な親族衆の欠如などといった不安要素は、やがて嫡男・義久の代になって、家中の存亡にもかかわる深刻な問題を引き起こしていくことなるのである。


誕生~青年期編集

永正11年2月12日(1514年3月8日)、尼子経久の嫡男・政久の次男として生まれる。幼名は「三郎四郎」。本来であれば家督を継ぐ立場にはなかったのだが、嫡男であったはずの兄は早くに夭逝、さらに本来なら尼子氏の家督を継いでいたはずの父・政久も、永正15年(1518年)の出雲阿用城攻めで戦死してしまう。そのため、政久の系統を絶やす事を惜しんだ経久の意向を汲み、嫡孫に当たる三郎四郎が僅か4歳にして世子に繰り上がる事となる。


大永年間には祖父の命を受け、伯耆守護代として伯耆守護の山名澄之を監視する任に付く。さらに享禄3年(1530年)、叔父である塩冶(えんや)興久の反乱が勃発すると、翌年にはこれに味方した備後山内氏を討伐すべく遠征、他にも三沢・多賀・山内氏討伐へと出陣し多大な戦果を挙げている。享禄5年(1532年)には美作、そして備前を立て続けに攻略している。これらの活躍を経て天文6年(1537年)、経久が80歳を目前に隠居したのを受け晴久は正式に家督を継承、5代目当主となった。

翌天文7年(1538年)には当時大内氏が領有していた石見銀山を手中に収め、さらに東への進出を図るべく因幡・播磨へと立て続けに侵攻、当地の守護であった赤松政祐(晴政)を破り、最終的にはこれを堺にまで追いやっている。この一連の上洛に向けた戦の背景には、当時石山本願寺と対立していた幕府からの救援を兼ねた上洛要請、それに豊後の大友義鑑の画策による大内氏包囲網の構築などが関係しており、これらに便乗する事で先代の経久からの方針である国人衆の統制や、近隣への存在感の誇示をより強化する狙いが晴久にはあった。


大内氏との攻防編集

当然、この一連の行動を大内氏が黙視しているはずもなかった。実は詮久が家督を継ぐ以前、経久の治世末期には仇敵であった大内氏とは一時的に和睦状態にあり、一連の行動は大内氏を刺激するものに他ならなかったのである。

この時期大内氏は北九州での戦に注力しており、中国地方における軍事行動では尼子氏に一歩後れを取る格好となっていたが、状況を打開すべく当主の大内義隆は仇敵・大友氏との和睦に踏み切り、これに伴う大内氏包囲網の瓦解により、上洛の構えを見せていた詮久も一旦出雲への撤退を余儀なくされた。

さらに将軍である足利義晴も尼子氏の播磨進出を警戒し、それまでとは一転して大内氏に尼子氏への攻撃を要請。これを受けた大内氏は安芸国内の尼子方国人である安芸武田氏を攻撃、詮久の援兵派遣の甲斐もなく当主の武田信実は若狭へ追われる事となった。表面上和睦関係にあった大内氏との関係は、ここに決定的な破綻を迎えるのである。


既に大永年間の時点で、興久の反乱をきっかけに備後山内氏と疎遠になっていただけでなく、重臣・亀井秀綱の主導による毛利氏の家督相続への介入に失敗し、毛利氏の大内氏への転属を許すなど、尼子氏は備後や安芸への支配力低下を招いていた。この事態を憂慮した詮久は天文9年(1540年)、安芸武田氏の要請などもあり大内方に属していた毛利元就の討伐を決定する。

『陰徳太平記』にはこの時、祖父の経久はこの遠征に反対したが、血気に逸る詮久は遠征を強行したと記述がある。とはいえ毛利討伐の直前には、安芸武田氏のみならず石見・安芸・備後の有力国人の多くは尼子方に与するなど、周囲の形勢は明らかに尼子氏に有利に展開しており、詮久にとって決して分が悪い訳でない、むしろ十分に勝算のある戦であった。

また実際に戦闘が始まってからも、安芸武田氏の奮戦により大内氏の援軍は遅延し、さらに援軍と毛利氏との合流を遮断しこれを迎撃する為、本陣を吉田郡山城北西の風越山から、同じく西南の青山・光井山に移すなど、巷で言われる程の稚拙な戦いを展開した訳ではなかった。

しかし兵力で大きく勝りながらも、郡山城を包囲した後は小競り合い程度で積極的攻勢に出る事は無く、元就率いる毛利軍の徹底した籠城戦法により戦局は長期化、やがて援軍として駆け付けてきた陶隆房率いる大内軍に大敗を喫し、大叔父の尼子久幸を失った(吉田郡山城の戦い)。


月山富田城の戦い編集

この毛利討伐の失敗は尼子氏を頼りにしていた安芸武田氏の滅亡と、尼子方の国人領主の大量離脱という事態を招き、安芸国内での勢力基盤を喪失する結果となった。祖父・経久も翌天文10年(1541年)に逝去するという不幸も重なり、事ここに至って尼子氏は危機的状況に陥った。

この苦境を打破すべく、同年には自らの権威回復を企図して、将軍・足利義晴から「晴」の一字を賜り「晴久」と改名。さらにこの時期には備中・美作へ自ら出陣し、美作三浦氏・中村氏らを攻撃するなど、周囲の国人衆への統率強化を図ろうと様々な手を講じている。


天文11年(1542年)に入ると、大内義隆自ら4万5千もの大軍を率い出雲へ侵攻(第一次月山富田城の戦い)。この侵攻により赤穴(あかな)城主の赤穴光清が戦死、一時は家臣の本城常光までもが降伏して大内方に回るなど、緒戦は尼子側に不利な情勢であった。しかし、尼子勢の徹底抗戦は戦局の長期化と大内軍の疲弊を招き、開戦から1年余り後には寝返っていた国人衆(吉川興経三刀屋久扶本城常光等)も再び尼子方へと帰参した。

この国人衆の再度の寝返りにより戦況は完全に逆転、不利を悟った大内軍は撤退を開始したが、尼子軍の追撃による混乱の中で大内義隆の養嗣子・大内晴持が船の転覆により溺死、沼田小早川氏当主・小早川正平も戦死、辛くも難を逃れた毛利元就も家臣の渡辺通(かよう)が身代わりとなって玉砕する等、大内方の諸将は九死に一生を得るほどの損害を受けた。


この余勢を駆って、晴久は失地した石見東部を取り返し、当地の領主であった佐波氏を大内所領に追放している。さらに先の戦で大内氏に与した一族の尼子清久(塩冶興久の遺児、父の反乱の終結後連座を免れていた)を粛清したのに始まり、出雲国造千家氏は退転、河津氏・宍道氏・神西氏・多賀氏は惣領を追放処分、三沢氏は出雲国横田荘などの領地を削減、直轄化とするなど、家中や傘下の国人衆に対する冷徹な処罰や締め付けを断行した。

加えて雲南地域砂鉄の産地や流通を押さえるなど、この大勝は失地回復のみならず、経久時代からの懸案であった出雲の支配体制強化を推進する絶好の機会をも生んだ。以後晴久は本国出雲を中心として、伯耆・美作・隠岐を基盤に周辺地域へ侵攻し、再び勢力の拡大に邁進する事となる。


八カ国守護編集

天文12年(1543年)7月の石見侵攻により、尼子氏は石見銀山を再び奪取することに成功する。翌天文13年(1544年)頃には、因幡守護・山名誠通(久通)を従属させ、因幡全域への影響力を強めるが、間も無く但馬守護・山名祐豊の攻撃によって久通は敗退し、彼を支援する尼子氏の勢力も後退。その後は当地の重要拠点であった鹿野城を巡って、但馬山名氏と小競り合いを続けている。

同年7月には晴久自ら備後へと出陣し、三次盆地に力を持つ三吉氏を攻撃、迎撃に出た毛利家家臣の児玉就忠・福原貞俊の軍勢を撃退している(布野(おしの)崩れ)。だが同時期に富田月山城の戦いの後追放されていた佐波氏が、大内氏から援助を受ける形で石見に帰還を果たし、代わりに入っていた赤穴氏当主・赤穴盛清は出雲へと撤退した。


天文17年(1548年)頃には、美作高田城の美作三浦氏を家督・所領の安堵を通じて従属下に置き、美作西部での尼子氏の勢力拡大に成功。前述した杵築大社支配に向けての取り組みもこの前後に進められている。

天文20年(1551年)頃には備前を圧迫し、当地の国人松田氏や備前守護代・浦上政宗を味方につけるが、政宗の弟・浦上宗景はこの動きに対し、反尼子方の備前国人を糾合して自立、毛利氏や備中の三村氏より援助を受け、これに対抗した。晴久も自ら備前に出陣、政宗と結んで宗景の居城である備前天神山城・沼城まで進出し、これを牽制している。


天文20年(1551年)、大内義隆が陶隆房(晴賢)の謀反により自害した(大寧寺の変)のに伴い、翌天文21年(1552年)には室町幕府の13代将軍・足利義輝より、山陰・山陽8ヶ国(出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後)の守護及び幕府相伴衆に任ぜられた。同年12月3日には朝廷からも、従五位下の位と修理大夫の官職を賜る。

これは中央政権である幕府と朝廷に、尼子氏が中国地方の名家及び大内氏に準じた働きをする勢力として認知されたと共に、守護を任された国における尼子氏の優勢を象徴する出来事でもあった。この守護職補任で大義名分を手にした晴久は、これを契機として尼子氏の出雲下向時からの直臣を用いて、奉行衆を中心とした支配体制を確立した形跡がみられる。


新宮党粛清と備後攻防戦編集

中央との繋がりを追い風に、晴久による中央集権体制の構築は着々と進んでいたが、一方でこの動きは叔父・尼子国久と、彼の率いる新宮党の立場を微妙なものにしたと思われる。前述の通り中央集権化を志向する晴久と、半ば尼子家中より独立した勢力であった新宮党との折り合いは以前より良好とは言えなかったが、加えて尼子家中における傲慢な振る舞いも、晴久や重臣達との軋轢に拍車をかけるものがあったのである。


それでも、新宮党が尼子の精鋭部隊として勢力拡大に高く貢献していた事もあり、晴久もそう易々と処断に踏み切る事は出来なかったが、やがて晴久の正室として嫁いでいた国久の娘が他界し、両者の繋がりが切れたのをきっかけに、同年11月には遂に国久・誠久父子と新宮党の粛清を断行する。この粛清により、新宮党の勢力基盤であった東出雲能義郡吉田荘・塩冶氏領の出雲平野西部は晴久のもとに直轄化され、さらなる尼子氏の権力基盤強化に寄与している。

この新宮党粛清の折、毛利元就が謀略の一つとして「尼子国久・誠久父子が尼子晴久を抹殺して権力を握ろうとしている」という噂を立て、それを真に受けた晴久が粛清に踏み切ったと「陰徳太平記」にはあるが、後の研究により同時期に発生した陶氏家臣・江良房栄の謀殺と関連付けた、推測ないし創作であろうと見做されている。


話は前後するが、天文21年(1552年)頃には、三次盆地に勢力を持つ江田氏や、宇賀島衆等の海賊衆を味方に付け、さらに備後新一宮氏を支援し、備後方面への積極な進出を図っている。翌天文22年(1553年)にはさらに美作東部へと進出。浦上宗景らの連合軍を撃退し、播磨加古川まで進撃している(美作勝山の戦い)。

ところがこの隙を突く形で、毛利氏を中心とした大内氏方の国人衆が備後の尼子方国人・江田氏を攻撃。その報を受けた晴久は美作から取って返し、萩瀬にて陶晴賢率いる大内軍と激突。一時は安芸に侵入するなどして盛り返すも勝敗は付かず、秋から冬にかけて江田氏の居城・旗返山城の落城や、山内・多賀山両氏の大内方への帰参もあり、備後庄原から福山にかけての支配権を喪失した。

備後は尼子氏本拠の出雲に近い分尼子氏の影響力も強い一方、安芸とも隣同士である事から毛利氏を始めとする反尼子同盟の国人衆の攻撃も激しく、この一件をきっかけに備後への大内氏の影響力は強まった。結局天文23年(1554年)、晴久は益田氏を通じて大内氏(陶氏)と同盟関係を結ぶ事で、一連の戦いにひとまずの決着を付ける事となる。


石見銀山争奪戦編集

天文24年(1555年)、大内家の主導権を握っていた陶晴賢が、毛利元就との厳島の戦いに敗れて自害。これにより前年に結んだ大内氏との同盟関係は自然消滅し、晴久は大内家の崩壊を石見侵攻の好機ととらえた。


当時、銀山防衛の最重要拠点である山吹城は、大内方に鞍替えしていた刺賀長信に任されており、毛利氏は弘治2年(1556年)にこれを降伏させて一旦は銀山を手中に収めていたが、晴久は山吹城を落とすべく攻略中であった備前天神山城より素早く兵を引き上げ、長信の甥孫で川本の小笠原長雄と結んで城を包囲。元就率いる毛利軍も反撃に出たものの、晴久はこれを忍原(おしばら)にて撃破(忍原崩れ)し、9月には長信の自害により山吹城も陥落した。

この戦いの後、山吹城には新たに本城常光を城主に据え、既に天文年間の後半に雲石国境の刺賀岩山城に派遣していた直臣の多胡辰敬や、新たに鰐走城に派遣した牛尾久清、在地の国人領主である温泉(ゆのみ)英永などを連携させて、銀山の積極的な確保に努めた。


弘治3年(1557年)、毛利氏による防長経略により、大内氏最後の当主・大内義長が自害する。中国地方における大内領の大半が毛利領になった事で、毛利元就による石見東部への侵攻も激しくなり、永禄元年(1558年)にはまず小笠原長雄の温湯城が攻撃された。晴久も救援に出陣したが、折からの豪雨のため江の川が増水して渡れず、永禄2年(1559年)8月には小笠原氏が毛利氏に降伏した。

これに乗じて毛利氏は石見銀山奪回の為、銀山を守る要衝である山吹城を攻撃するも陥落には至らず、その撤退中に本城常光の追撃を受け大敗(降露坂の戦い)。10月には大田より帰陣を余儀なくされた。

しかしこの間、毛利氏は但馬山名氏と結託して備後・備中・因幡などでも軍事活動を展開、尼子方国人衆を駆逐し当地における支配基盤を喪失させている。晴久の存命中、毛利氏の石見銀山への侵攻を遂に許さなかった晴久だが、大局的に見ればこの山陽方面における領土の喪失が、その後の尼子氏に暗い影を落とす一因ともなったのである。


若すぎる死編集

弘治元年(1555年)から永禄年間にかけ、播磨の浦上政宗の援軍総大将として、嫡男の義久を派遣している。また永禄2年(1560年)には、備中上房郡(現・高梁市)にて毛利方国人・三村家親と一戦を交え、これを敗走せしめている。


このように外征・内政において着々と成果を上げ、懸案であった中央集権化にもようやく目途が付くなど正にこれからという矢先、晴久は月山富田城内にて47歳という若さで急死してしまう。永禄3年12月24日(1561年1月9日)の事であった。『雲陽軍実記』等に綴られた急死の場面を見るに、死因は脳溢血によるものだと推測されている。

敵対していた毛利元就も、「一度でいいから旗本同士で戦いたかった」とその死を悼む言を残している。


創作における晴久編集

NHK大河ドラマ『毛利元就』編集

(演:高嶋政宏

物語中盤~終盤における、主人公の敵として登場。初登場の頃は溌剌ながらも若さゆえの失敗も目立つ無骨者として描かれていたが、次第に有能かつ冷徹な当主へと成長を遂げていく。

このドラマの中~後半は、「偉大過ぎる先代に対して次代がそれを乗り越えるべく苦悩する」様も物語の重要な流れの一つであったが、晴久もその例に漏れず先代である経久の面影を振り払おうと、時に強引な行動に打って出る事もあった。叔父の国久や新宮党の粛清も(元就による謀略という巷説も交えつつ)その延長線上の出来事として描かれたが、この事が国久の娘であった正室の恨みを買い、やがて悲惨な末路へ繋がっていく。


尼子晴久(戦国BASARA3編集

すなのひと

尼子晴久(戦国BASARA)


尼子晴久(戦国大戦編集

アゲアゲで行っちゃうよぉ~♪

あげあげアゲ↑アゲ↑でイっちゃうよォ♪

CV:小野大輔

概要編集

「15XX五畿七道の雄」より祖父や息子と共に他家勢力に参戦。レアリティはRで、二つ名は「山陰の王者」。計略使用時に用いる上記の台詞により、ファンから渾名として「アゲアゲ」と呼ばれる事もある。


「神の国」と言われる出雲の国主だけに神官の衣装ではあるが唇と耳にピアス、シルバーのアクセサリーに軽い口調と何故か現代風のいわゆるチャラ男なデザイン。スペックは弓足軽で武力(5)、統率(6)とも平均的で特技に魅力を持つ堅実なスペックである。

固有計略『八方破の陣』は範囲内の味方の武力と移動速度を上昇させる陣を展開する。デメリットとして展開した陣に敵が進入すると自城に徐々にダメージを受けるが、ダメージはあまり高くない。

自城にダメージを負うほど効果の上がる計略を持つ尼子家の家臣、山中鹿之助と共に運用すれば、デメリットを更なるチャンスに変える事も可能。


まあ、なるようになるでしょ♪


関連タグ編集

戦国大戦 山中鹿之助 尼子経久 尼子誠久 尼子義久


尼子晴久(戦国無双編集

武器:刀剣(3) 槍(4) 声:藤本たかひろ(3Empiresの特殊台詞時は宮坂俊蔵)


「名族・佐々木源氏の末に晴久あり!ひれ伏せい!」(3Emp特殊セリフ)


3Empiresより初登場。(2Empiresでは先駆けて息子・義久や鹿之助がモブとして登場)特殊台詞は尼子家を名族(元を辿れば佐々木源氏)と称し、その威光にひれ伏せという意味合いがとれる。


戦史演武では吉田郡山城の戦いや第1次月山富田城の戦いに総大将として登場。イベント「尼子調略」の会話内で死去した事が隆景の口から語られた。(この時に当主が義久へ交代する)


4Empiresでは奥方にして叔父・国久の娘であるみつが登場し、それと同時に鹿之助共々固有武将として登場した。しかし特殊台詞は省略された。

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