生没年
生年……天文15年(1546年)
没年……天正10年3月11日(1582年4月3日)
概要
甲斐武田家第二十代目当主であり、「甲斐の虎」の異名で知られる先代当主・武田信玄の四男。母は信玄の側室・諏訪御料人(諏訪頼重の娘)。
勝頼の諱は信玄の幼名「勝千代」の「勝」と母の実家である諏訪氏の通字の「頼」と組み合わせたものであると考えられている。兄弟の中で武田家祖・武田信義以来の武田家の通字である「信」を受けていない。
通称は四郎、諏訪四郎、伊奈四郎、武田四郎など。
伊奈四郎の呼び名は諏訪一族の高遠(諏訪)頼継が反乱を起こして滅亡した後、信濃国・伊那谷の高遠城主を務めたためとされる。正式な官位は生涯無く信玄生存中は通称の四郎で通し、信玄死後に父の官位だった大膳大夫を自称した。
当初は母方の祖父・諏訪頼重の諏訪惣領家の家督を継ぎ諏訪四郎と名乗ったとされていたが、勝頼が継いだのは頼継の高遠諏訪家だったとも言われており初期の呼び名は伊奈四郎が正しいとされるが、高遠城主時代の1564年に高遠二宮小野神社に寄進した梵鐘には「諏方四郎神勝頼」と刻まれている。
いずれにしても諏訪惣領家・高遠諏訪家双方で当主として数えられてはいない。ちなみに大河ドラマ「武田信玄」では元服後しばらくは諏訪姓を名乗っており通称も四郎または四郎神を使っていた。原作である新田次郎の小説では諏訪姓を名乗ってはおらず伊奈四郎の名乗りも通称扱いであり、終始武田姓で通しているなどの相違点がある。
生涯
出生~家督相続まで
天文15年(1546年)誕生。
母とともに甲府の躑躅ヶ崎館で生まれ育ったと考えられているが、裏付けされる史料は現在まで発見されておらず、元服し高遠城主となるまでの経緯は未だ不明瞭な点が多い。
元々は長男である武田義信が嫡子(信玄の後継者)とされ、庶子である勝頼は本来なら当主の座につくことなどまずない立場であった。しかし、次兄・海野信親(竜宝)は失明により出家し、三兄・信之も早世していたため早い段階で後継候補の次点に浮上していた。そして、今川家との外交問題をきっかけに義信が信玄と対立して廃嫡され 後に病死した(義信事件)ため、勝頼が後継となったのである。他家に養子に出された人物が実家の家督を継ぐケースは非常に稀で他の親族や家臣の反発を招くことにも繋がりやすいものだが、勝頼もまたこのことで苦労することになる。
信玄が今川氏真に対抗するために織田信長と同盟を組んだ際、勝頼は龍勝院(信長の実の姪にして養女)を正室にして結婚。彼女との間に嫡男・武田信勝が生まれた。その後、勝頼は駿河侵攻(対今川戦)において蒲原城や花沢城を攻略するという功績を上げた。さらに、三増峠の戦い(対北条戦)においても武田軍の勝利に貢献した。
駿河を平定し、北条との同盟を復活させた信玄は、室町将軍・足利義昭による信長追討令を受けて信長包囲網に参加(この時、龍勝院は既に亡くなっている)。織田との同盟を破棄し、織田領や徳川(織田と同盟を組んでいる勢力)領へと侵攻(西上作戦)し、勝頼も三方ヶ原の戦い(対徳川戦)などで大活躍した。
元亀4年(1573年)4月12日、父・信玄が西上作戦の途中で病死。
これを機に、勝頼は武田家の家督を相続する。信玄は、自身の死により混乱に乗じて他国から侵攻されることを危惧し「自身の死を3年の間は隠し、その間は内政に努めよ」という旨の遺言を伝えていたため、表向きは信玄を「隠居」として扱いその死を外部に漏らされないように努められた。
『甲陽軍鑑』などでは勝頼は勝頼の長男・信勝が成人し当主となるまでの中継ぎとしての「陣代」に過ぎなかったとされているが、令和年間に研究がさらに進み現在では否定されている。
当主として
巡り巡って信玄の後継者という大役を担うことになった勝頼だったが、これまで守勢に徹していた織田信長・徳川家康らは早々に信玄の死に勘付き攻勢に転じ、足利義昭の追放や信玄の同盟者だった浅井長政・朝倉義景を滅ぼすなど着々と勢力を拡大。くわえて、武田に服従していたはずの奥平貞能の徳川への寝返りにより大きな軍力を失うと共に、貞能が家康に信玄の死を明言するなど、勝頼は内外共に大きな問題を抱えることになる。
そのため、勝頼は活路を見出すべく積極的に外征に出ることになり信玄の「死後3年は内政に努めよ」という遺訓を破らざるを得ない状況に陥った。まず、東美濃の織田領に侵攻して東美濃の明知城など18個もの城をわずか半月で攻略し明智光秀・森長可らを率いて援軍に来た信長を撤退させ、信玄も攻略できなかった東遠江の堅城・高天神城を攻略するなど、勢力圏を信玄時代より広げている。
長篠・設楽原の戦い
天正3年(1575年)、前述の奥平氏を討伐するため、およそ15000の兵で三河国へ侵攻。奥平信昌(貞能の嫡男)が立て籠もる長篠城を攻める。しかし、予想以上に苦戦しなかなか攻め落とせず、その間に織田・徳川の連合軍が設楽ヶ原に集結。勝頼は、3000の兵を長篠城に残し、12000の兵で設楽ヶ原の織田・徳川軍に対峙する。
このとき、織田・徳川連合軍は武田軍の倍以上の兵力を有し、尚且つ馬防柵による堅牢な陣城を構築していた。しかし、当時は情報技術が現代ほど発達していなかったため、勝頼は織田・徳川連合軍の兵力を把握できなかった。そんな中、信長の重臣・佐久間信盛が武田側に寝返るという密書を入手(実際には、信長が勝頼を誘き出すための罠だった)したため、信長の勢力拡大に終止符を打つ最適な機会と判断し、攻勢を仕掛けた。序盤こそ(佐久間の密書が偽物と気づき)佐久間信盛・滝川一益・羽柴秀吉ら織田家の部将たちを圧倒したが、勝頼の義兄弟・穴山信君が軍を動かさなかったため、結果として武田軍は大敗を喫し、山県昌景・馬場信春・内藤昌秀をはじめとする有力武将を含む多くの戦死者を出した。
旧説ではこれ以降衰退の一途をたどったとされていたが、実際はそれほど一方的に衰退したわけでなく(長篠の戦いは1575年、武田家滅亡は1582年)、敗戦後すぐに織田領に侵攻するだけの力があった。
信長に対する反撃
長篠の戦いからしばらく後、備後国鞆に亡命していた足利義昭の呼びかけにより、武田・上杉・北条の三者の間での和睦(甲相越三和)が提案され、勝頼はこれを受け入れることを表明。実際のところ、勝頼は信玄から「有事の際には上杉謙信を頼れ」という遺言を受けており、長篠敗戦後窮地にあった勝頼にとっては渡りに船であったとされる。その後、10月には武田・上杉間の和睦(甲越和与)が成立。北条は信玄死後、上杉と再び不和になりこの三和にこそ拒絶したが、武田とは信玄時代より親交が深いことや、勝頼が北条氏政の異母妹(北条夫人)を継室に迎えるなど関係が強められた。
こうして勝頼は謙信に毛利輝元・本願寺顕如などと共に第三次信長包囲網を結成し、信長を再び追い詰めた。
没落そして滅亡
しかし、謙信が病没したことで信長は再び勢力を盛り返した。さらに、謙信の死により上杉家中で謙信の養子(上杉景勝と上杉景虎(北条三郎))同士による家督争いが勃発した。景勝は謙信の実の甥で、景虎は北条氏政の実弟であった。そのため、上杉とも北条とも親しかった勝頼は両者を和睦させた。だが、景勝と景虎の戦いが再発し、最終的に景勝が勝利した。氏政は(自分は景虎を救援しなかったにもかかわらず)、この一連の責任を全て勝頼に押し付け、武田との同盟を破棄した。こうして勝頼は、北条に対抗するべく異母妹・菊姫を上杉景勝に嫁がせて武田家と上杉家の同盟(甲越同盟)を締結した。さらに、武田家と佐竹家の同盟(甲佐同盟)も締結し、武田・上杉・佐竹などの大名による北条包囲網を完成させた。
さらに、重臣・真田昌幸による活躍もあって北条を追い詰めることに成功した。しかし、今度は信長・家康・氏政に加えて伊達輝宗・蘆名盛氏による武田・上杉包囲網を敷かれた。これに対し勝頼は昌幸に命じ新府城を築城することでそれらに対抗しようとした。だが、勝頼の義弟・木曾義昌が軍役問題などで拗れて織田側に寝返ったことにより、織田・徳川・北条連合軍による侵攻を受け、穴山信君までもが織田側に寝返った。
皮肉なことに、このとき織田軍の総大将を務めた織田信忠(信長の嫡男)は松姫(勝頼の異母妹)の婚約者だった(龍勝院の没後、武田と織田の同盟継続のために婚約していたが、同盟破棄に伴い破談となっていた。しかし、それでも両者は相思相愛だったと言われている。)。
その後、岩櫃城主・真田昌幸と岩殿山城主・小山田信茂がそれぞれ勝頼の受け入れを表明したが、勝頼はより近い信茂の方を選択した。しかし信茂が勝頼を裏切ったため進退窮まり、一族郎党共々自害した。享年37歳。この時一緒に自害した嫡男・信勝は16歳、後妻の北条夫人もわずか19歳だったという。娘の1人・貞姫が足利氏の分流である旗本・宮原義久の正室となり、宮原晴克の母となった。晴克の子孫は女系で幕末まで続き、当主と嫡男が宮原姓、庶子は穴山姓を名乗った。
余談だが、織田信長は武田滅亡から3ヶ月後に横死した。
評価
戦国時代における評価
- 織田信長
信玄が亡くなった直後は勝頼を過小評価していたが、勝頼の東美濃において戦死寸前の状況に陥ったことにより勝頼を名将と評するようになり、恐れるようになる。
長篠・設楽原の戦いで武田軍に対して勝利したのちも勝頼を恐れており、対武田戦は徳川や北条に任せていた。西方の情勢が安定し、初めて武田軍に対する大攻勢を仕掛け、武田家を滅亡させる。
勝頼について、「(勝頼は)優秀だったが、運が悪くて滅亡した」と評した。
- 上杉謙信
(信長と同盟を組んでいた時は、)信長に宛てた手紙で「勝頼は片手間であしらえるような武将ではない」と評している。
(信長との同盟が破綻した後、)勝頼と和睦し、対織田戦にて勝頼と共闘する。これにより、勝頼の優秀さを認めていた事実が改めて窺える。
- 徳川家康
勝頼は先例にとらわれない、勇気がある武将と評している。
また、信長が援軍を送らない際は勝頼に降伏することも検討していた。
- 北条氏政
信長に宛てた手紙で、「北条は勝頼によって滅ぼさせるかもしれない」と記している。
後世の評価
勝頼は特に武勇に優れ「武田二十四将」の一人に数えられるほど有能な武将である。しかし、長篠・設楽原の戦いで織田徳川連合軍の前に大惨敗を喫したこと、結果的に名門甲斐武田家を一代で滅ぼしてしまったということが目立ってしまうため、ネガティブなイメージが目立ってしまっている。しかし、近年は再評価され始めている。
その要因の一つとなった家臣との不和については、彼の出自や経歴が原因したという見方が有力。勝頼の母・諏訪姫の家系である諏訪氏は、勝頼の祖父(信玄の父)・武田信虎の代に同盟関係にあったが、その信虎を信玄が追放、加えて諏訪頼重が上杉憲政との和睦交渉を信玄が「盟約違反」としたことにより関係は手切れとなっていた。その後、信玄は諏訪氏を侵攻の末に制圧。以降も諏訪家臣団である残党や高遠頼継、諏訪満隆(頼重の叔父)らの反乱に追われることになる。
この戦いの中で信玄は当初、諏訪氏に侵攻する大義名分として頼重の子・千代宮丸を擁立したが、やがてこれを破棄。千代宮丸を大叔父・満隆の反乱時に殺害し代わりに自身と諏訪姫の生まれてくる子を立て、諏訪氏を継承させる路線に変更した。当初、敵将の娘である諏訪姫を側室に迎えることに対して家臣団から反対論も上がったとされる。また宗教面でも、富士山を中心とする浅間信仰と、諏訪湖を中心とする諏訪信仰の対立があったとも言われている。
そうした複雑な事情を背負って生まれてきたのが勝頼であり、加えて、上述通り信玄の正室(三条の方)の子らが尽く後継から退いた経緯なども相まって(特に義信に同情的な)家臣団から悪評を被ったとも推測される。また「勝頼が信玄の息子たちの中で唯一、武田氏の通字である『信』の字ではなく、諏訪氏の『頼』の字を継承している」ことや「朝廷から官位を授かっていない(信長の妨害があったとされる)」なども一因しているとも考えられる。勝頼が信玄死後、遺訓を破ってまで領土拡大に転じたのも、そうした家臣たちから向けられる不満をいち早く成果を上げることで払拭したかったのかもしれない。しかし、それは家臣たちの軍役負担を増やすことにも繋がったためそれに付いていけない家臣たちとの溝をさらに深める結果となってしまった。
その上、信玄の晩年頃から武田家中では家臣団の対立が起きていたのも要因に上げられる。武田家の領土は甲斐1国であったのを、信玄1代で信濃、西上野、駿河、遠江や美濃の一部にまで拡大した為、信玄は内藤昌秀・馬場信春・高坂昌信・真田信綱・秋山虎繁らの重臣達を各地の統治に当たらせる城代に任命した。一方で甲斐本国に在中し、内政や外交文書を発行する山県昌景・跡部勝資・土屋昌続・原昌胤・長坂釣閑斎・三枝昌貞ら奉行人は、武田家の領土拡大と伴い、次第に当主である信玄に代わりに各地の城代に指示を出すようになっていった。その中で、自分が蔑ろにされていると感じた城代は奉行人に反発するようになり、奉行人にも主君の命令を聞かない城代を敵視するようになってしまった。そのことが原因で、武田家は勝頼指示派の奉行人と勝頼反対派の城代で二分してしまう。
一方で、戦闘面では武田家の中でも突出しており、同盟者になった謙信や政敵である信長もその武勇を評価・警戒するほどの武将であったとされる。永禄6年(1563年)の上野箕輪城攻めを初陣とし、数々の戦で武功をあげており、その中でも白兵戦での活躍が多く残されている。ただ、それがかえって他国に危機感を与え、信長&家康&氏政の大軍を呼び寄せた結果につながったともみられ、「強すぎたがために身を滅ぼした」ともいえる。
加えて言うなら滅亡の要因となったのは織田家の攻勢ではなく、武田家内部の家臣との争いであったとされる向きも多い。元々信玄が今川家を裏切って義信を廃嫡しなければ武田家滅亡は起きなかったであろうともされ、信玄の代ですでにその要因はあったと言われる。しかし、今川を攻めない場合駿河が徳川や北条に占領されていた危険性があったので、信玄による駿河侵攻は決して失策ではない。
また、御館の乱での行動で景虎を(結果的に)見殺しにする形となり北条氏から三下り半を突き付けられ、かわりの同盟相手となった上杉家の方は御館の乱後の恩賞問題が拗れ(信長や輝宗に扇動された)新発田重家が乱を起こしたことでさらに弱体化したため当てに出来なくなってしまったことを失策と指摘する意見が存在するが、そうとは言い切れない。その理由は、仮に景虎が乱に勝利した場合、北条が上杉領を吸収することになり、そうなると武田領が北条領に囲まれてしまう。そして、北条が武田との同盟を破棄して攻め込んでくる危険性がある(その証拠として、史実では織田軍が武田を滅ぼしたのち、北条は織田と同盟を組んでいたにもかかわらず、信長が横死すると同盟を破棄して織田領に攻め込んでいる)。また、勝頼の異母弟(信玄の七男)である武田信清は甲越同盟の縁により、武田滅亡後に上杉家に仕えることができた。そのため、勝頼は上杉家と同盟を組んだことにより、武田信玄の子孫を存続させることに成功するという功績を上げたのだ。
こういった記述を読めば分かるとおり(信長もそう言っている通り)、勝頼は優秀ではあったが不運であったために滅亡してしまったのだ。
生存説
勝頼には、生存説が存在する。それによると、天目山で自害した人物は勝頼ではなくその影武者で、勝頼は縁戚の香宗我部氏を頼って四国へと逃亡した。そして、大崎玄蕃と名乗り1609年まで生き延びたらしい。
高知県には勝頼の墓があり、「武田勝頼土佐の会」という団体も存在し、勝頼関連の祭りが毎年開催されている。
創作
戦国大戦
そんな彼ではあるが、SEGAのアーケードカードゲーム「戦国大戦」においてVer.1.10「1570 魔王上洛す」より、武田家の武将として参戦を果たした。
二つ名は「虎を継ぐ者」。
『最強武田軍はこの俺が引き継ぐ!』(開戦前)や、『俺が新しき虎となり、天下を掴み覇を唱える!』(落城時)など、父・信玄の後継者としての意識が強い台詞が多い。
コスト3で武力10/統率3の騎馬隊で、特技は「気合」と「魅力」と、父・信玄に負けず劣らずの充実したスペックを誇る。
武力10はSRの父(計略「風林火山」の方)とSR仕様の山県昌景、SS(戦国数寄)の秋山信友に比肩するほど高く、特技は山県と秋山の持つものを両方有している(前者から魅力、後者から気合)。
その反面、「家臣団との折り合いが悪かった」という史実を鑑みたのか統率が3と低く、妨害やダメージ計略などの「統率に依存する」ものには滅法弱いが、それさえ補えれば騎馬隊の速度・「気合」・高武力により高い火力・耐久力を存分に活かせる。
持ち計略の「猛進の陣」は、勝頼を中心に長方形の陣形を展開し、範囲内の味方武将の武力・移動速度を大幅に高めるもの。
使用する士気は4と、費用対効果は同等量の采配・陣形はもちろん、大名采配(陣形)クラスの計略ですらも凌ぐ。
ただしその分効果時間はかなり短く、「各々が向いている方向」へ強制的に前進してしまうという非常に厄介な制約が付いているために非常に使いにくいのが難点。
適当に使うとあさっての方向に行ってしまったり、敵に突っ込んでいっても回避されてしまうとその時点で意味をなさなくなってしまう。
向きの調整にミスした状態で撃ってしまうと士気4点を破棄するのと同義な上、「停止できない」ことで、大筒の維持や奪取をすることすらできない。
ver1.20以前では、敵の攻城エリアまで行けたとしても跳ねかえってしまって攻城することも出来なかったが、修正されて現在は攻城エリアまで行ければそこで留まり、攻城できるようになった。
ちなみに、この強制前進効果の優先度はとんでもなく高く、挑発を受けようが秘剣計略のチャージ中だろうが鉄砲の発砲中だろうが、挙句の果てには舞踊計略の最中の舞姫(舞踊計略が女性武将しか持たないため)であろうが強制前進させてしまう。
挑発などを打ち消す・秘剣チャージ中の味方を無理やり動かすなど、強制前進を生かすことも可能だが、鉄砲の発砲停止をしたいところで出来なかったり、舞踊状態の舞姫を防御するために使ったら却って危険に晒してしまうなどといった事態に陥りかねないことに留意してほしい。
スペックから計略まで癖が強いために使い手を選び、一度ハマれば圧倒的な粉砕力を活かせることが出来るが、駄目な時はとことん駄目というピーキーさが特徴。
ただし潜在能力は高いので、そこはプレイヤーの腕の見せ所。
彼を正しく導いていき、彼とともに「最強武田軍」の力を見せつけてやろう。
「最強武田軍の名は、俺が引き継ぐ!」
さらに彼には2枚目の勝頼が実装された。
2つ名は「手負いの虎」。
SRの騎馬隊で武力8、統率6の2,5コストの騎馬隊で特技として「魅力」と「気合」を持ち。
1枚目よりも武力は下がったものの、代わりに統率が上がったので、妨害計略や統率差ダメージ計略に強くなった。
計略は「万死一生」横長の長方形の範囲いる自分を含む味方の武力を最低でも5上げ、突撃ダメージと槍撃ダメージを上げる。
士気7使用で武力5はやや物足りない気がするが、この計略にはさらに続きがあり、兵力が減少すればするほど武力が上がり、最大で10上がる。
さらに武田家は槍騎馬が多く、気合や軍備持ちが多く耐久力が高い武将が多いので環境的に非常に噛み合っている。
『これが最期の戦と思い、命の限り戦いぬけ!』
3枚目の勝頼は2つ名『武田家最後の当主』。
武力9、統率6の2,5コストの騎馬隊として実装され、特技に「魅力」を持っている。同スペックで特技が「攻城」の飯富虎昌と、計略や特技の違いで使い分けていきたい。
計略は士気6を消費する『獅子吼(ししく)』。単体強化で兵力が少ない程、武力と速度と突撃ダメージが上がり、瀕死の状態ならば武力20まで達する超絶強化。ただし、力を最大限に引き出すは兵力が少ない状態で使う必要があり、槍の挟撃やダメージ計略を喰らうと簡単に撤退するかなりリスキーな計略だが、裏の手としては非常に優秀な計略で使い方次第では非常に有効な計略である。
なおこの勝頼は電影武将・宴と呼ばれる、特定の時期や方法でしか入手出来ないものなっている。
『倒れし者の魂を背負い、いざゆかん!』
英傑大戦
「六極の煌剣」より武田軍の所属する緋勢力の武将として、戦国大戦1枚目のデザインのリファインで参戦。二つ名も同じく「虎を継ぐ者」。
スペックは、コスト3 武力10/知力4の騎兵で、特技に「気合」を持つ白兵戦では頼りになる高武力武将。
固有計略『獅吼の采配』は自身以外の緋勢力の味方の武力が上がり、自身は武力と攻城力と兵力が上がる(兵力は上限超え)が移動速度が下がり強制的に前進する号令。
戦国大戦の『猛進の陣』と違い強制前進するのは勝頼のみのため、勝頼に攻城役を任せて他に用意した騎馬で攻城をサポートするようなデッキ編成が一般的。
戦国大戦・英傑大戦で勝頼の声を担当した杉田智和氏のファンサービスで、銀魂コラボで実装された坂田銀時と一緒に自軍に編成すると、開幕の台詞が互いに勝頼の計略台詞をアレンジしたものに変更される。
銀時『英傑大戦に退路はない!突き進めぇ!』
勝頼『ふっ、英傑大戦に退路はない!突き進めぇ!』
信長の野望
初期から登場。シリーズ通じて武勇は優れている。途中から武勇以外は壊滅的という猪武者と化していたが、最近は政治や智謀も底上げされシリーズ初期に近い能力になっている。
戦国無双シリーズ
(画像左)
信玄亡き後の武田家当主。長らくモブ武将としての登場だったが、2016年の番外タイトル『戦国無双真田丸』にてPC化。
詳細⇒武田勝頼(戦国無双)
殿といっしょ
諏訪御料人(諏訪姫)の息子であり、晴信(出家前の信玄)が知らぬ間に生まれていたらしいが、顔は信玄に瓜二つ。
晴信にこれっぽっちの敬意も抱いていない山本勘助&真田幸隆コンビに育てられたため非常に大雑把で短絡的な子供に育っているが、母親思いであり、病床の御料人を安心させるために家督を強請ろうとした。
大人になってからは顔は晴信により生き写しになっているが、性格の大雑把さには拍車がかかっており、風林火山を失敗談だと思い込んでいたり、よりにもよって「毘」の字を気に入って部下に与えようとする(しかも「屁」と誤記する)などかなりの残念な当主である。
一方で敵との駆け引きは父親譲り(?)の手練れぶりを見せており、鳥居強右衛門を捕まえた際にはいとも簡単に黒幕を見つけている(強右衛門がマヌケすぎたのもあるが)。
信長の忍び&真田魂
(画像右)
側室の子であり、本来は家督を継げなかい立場であったことをコンプレックスに思い、偉大すぎる父の残光を乗り越えることに躍起になっている。
顔は信玄そっくりだが、温泉好きは全く受け継いでいない。
真田昌幸からは「強すぎたる大将」であることを危惧されており、戦こそ宿敵・信長から警戒され同盟者・謙信から高評価されるほどの名将であるものの、負けん気が強く、逃げることや弱みを見せることを極端に嫌う一面を持つ。
長篠の戦いでは惨敗を喫し、支えてくれた配下たちを悉く失ったショックから自身も信長軍に特攻し討ち死にしようと漏らすも、昌幸から叱咤激励され、撤退を決意。
その後、織田・徳川・北条による総攻撃を受けて家臣たちは次々逃走し、落ちのびる予定だった岩殿城の小山田信茂から見捨てられ、天目山に追いつめられる。息子を、家臣を次々と失う中、正室・北条夫人と共に自ら命を絶った。
直後、真田郷で勝頼の死を知った昌幸は無謀にも小山田へのお礼参りまで思い立つほど激情するものの、そこに勝頼の霊が現れる。
勝頼「昌幸 すまんが先に逝く 世話になったな」
昌幸「殿を失ってはワシにはもう何も…!」
勝頼「あるじゃないか…お前にはまだ それを大切にするんだぞ…」
その後『軍師黒田官兵衛伝』作中にて、羽柴秀吉の下に「武田家滅亡」の知らせが届くこととなる…。
『真田魂』において、その後も…
Fateシリーズ
ドラマでの演者
なお、美木は翌年の大河ドラマでは降板したジョニー大倉の代役として馬場信春を演じている。
- 1988年NHK大河ドラマ「武田信玄(大河ドラマ)」 :真木蔵人
真木は子役時の晴信(信玄)と二役である。
- 1992年NHK大河ドラマ「信長 KING OF ZIPANG」:黒田隆哉
- 2007年NHK大河ドラマ「風林火山(大河ドラマ)」:池松壮亮
池松は子役時の晴信(信玄)と二役である。
登場当初はかつての偏見通り短慮という描き方をされていたが、のちに感慨深く潔い人物として描かれる。
出番は、天目山の戦いのみ。
岳大の父・平幹二朗はかつて祖父の信虎を演じており話題になった。
このドラマでは、再評価に伴い平和を愛し、民を思いやる心優しい人物として描かれた。
台詞は掛け声のみであった。
郷敦の父・千葉真一は、前述した大河ドラマ・「風林火山」にて武田家重臣・板垣信方を演じた経験がある。
再評価がさらに進んだことにより、信長や家康などが恐れる勇敢な名将として描かれるようになった。その一方、「真田丸」における勝頼とは対照的に冷酷さが目立っている。だが、寝返る家臣を責めない潔さを持っている点は「真田丸」における勝頼と共通している。
関連タグ
関連人物
血縁者・親戚
武田義信(異母兄) 海野信親(異母兄) 武田信之(異母兄) 仁科盛信(異母弟) 葛山信貞(異母弟) 武田信清(異母弟)
黄梅院(異母姉/北条氏政室) 見性院(異母姉/穴山信君室) 真理姫(異母妹/木曾義昌室) 桃由童女(異母妹) 菊姫(異母妹/上杉景勝室) 松姫(異母妹/織田信忠の婚約者)
宮原晴克(孫)
武田信豊(従弟)
義兄弟
家臣
土屋昌続 土屋昌恒 跡部勝資 長坂釣閑斎 岡部元信 大熊朝秀