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武田勝頼

たけだかつより

室町時代末期から安土桃山時代初期にかけての戦国大名。武田信玄の四男。甲斐武田家第20代当主。
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生年……天文15年(1546年)
没年……天正10年3月11日(1582年4月3日)

概要

甲斐武田家第二十代目当主であり、「甲斐の虎」の異名で知られる先代当主・武田信玄の四男。母は側室の諏訪姫諏訪頼重の娘)。

元服後は諏訪四郎または伊奈四郎と称し義信事件後は武田四郎を称したとされる。伊奈四郎の呼び名は諏訪一族の高遠(諏訪)頼継が反乱を起こして滅亡した後、信濃国・伊那谷の高遠城主を務めたためとされる。正式な官位は生涯無く信玄生存中は通称の四郎で通し、信玄死後に父の官位だった大膳大夫を自称した。

当初は母方の祖父・諏訪頼重の諏訪惣領家の家督を継ぎ諏訪四郎と名乗ったとされていたが、勝頼が継いだのは頼継の高遠諏訪家だったとも言われており初期の呼び名は伊奈四郎が正しいとされる。

いずれにしても諏訪惣領家・高遠諏訪家双方で当主として数えられてはいない。ちなみに大河ドラマ「武田信玄」では元服後しばらくは諏訪姓を名乗っていたが、原作である新田次郎の小説では諏訪姓を名乗ってはおらず伊奈四郎の名乗りも通称扱いであり終始武田姓で通しているなど相違点がある(現在ではこちらが正しいとも)。

生涯

出生~家督相続まで

天文15年(1546年)誕生。
母とともに甲府の躑躅ヶ崎館で生まれ育ったと考えられているが、裏付けされる史料は現在まで発見されておらず、元服し高遠城主となるまでの経緯は未だ不明瞭な点が多い。

元々は長男である武田義信が嫡子(信玄の後継者)とされ、庶子である勝頼は本来なら当主の座につくことなどまずない立場であった。しかし、次兄・海野信親(竜宝)は失明により出家し、三兄・信之も早世していたため早い段階で後継候補の次点に浮上していた。そして、今川家との外交問題をきっかけに義信が信玄と対立して廃嫡され自害に追い込まれた(義信事件)ため、勝頼が後継となったのである。ただし正確には、後継は勝頼の子の信勝であり、勝頼はあくまで陣代(後見人)に過ぎなかった。他家に養子に出された人物が実家の家督を継ぐケースは非常に稀で他の親族や家臣の反発を招くことにも繋がりやすいものだが、勝頼もまたこのことで苦労することになる。

元亀4年(1573年)4月12日、父・信玄が西上作戦の途中で病死。
これを機に、勝頼は武田家の家督を相続する。信玄は、自身の死により混乱に乗じて他国から侵攻されることを危惧し「自身の死を3年の間は隠し、その間は内政に努めよ」という旨の遺言を伝えていたため、表向きは信玄を「隠居」として扱いその死を外部に漏らされないように努められた。

当主として

巡り巡って信玄の後継者という大役を担うことになった勝頼だったが、これまで守勢に徹していた織田信長徳川家康らは早々に信玄の死に勘付き攻勢に転じ、将軍・足利義昭の追放や当時有力だった浅井長政朝倉義景を滅ぼすなど着々と勢力を拡大。くわえて、武田に服従していたはずの奥平貞能の徳川への寝返りにより大きな軍力を失うと共に、貞能が家康に信玄の死を明言するなど、勝頼は内外共に大きな問題を抱えることになる。

こうした他国の動向に焦った勝頼は父以上の勢力拡大を目指し、信玄の「死後3年は内政に努めよ」という遺訓を破って積極的に外征に出る。一時は東美濃の織田領に侵攻して明知城を落とし信長を撤退させ、信玄も攻略できなかった徳川配下の堅城・高天神城を落とすなど、勢力圏を信玄時代より広げている。

しかし、その事によって勝頼は自信過剰になったとされ、家臣の進言を無視する様になり始める等、旧来の信玄時代からの家臣との溝が深まっていったとされる。

長篠の戦い

天正3年(1575年)、前述の奥平氏を討伐するため、およそ15000の兵で三河国へ侵攻。貞能の子・奥平信昌が立て籠もる長篠城を攻める。しかし、予想以上に苦戦しなかなか攻め落とせず、その間に織田・徳川の連合軍が設楽ヶ原に集結。勝頼は、3000の兵を長篠城に残し、12000の兵で設楽ヶ原の織田・徳川軍に対峙する。

このとき、武田軍の倍以上の兵力を有し、尚且つ馬防柵による堅牢な陣城を構築していた織田・徳川軍の状況から、譜代の家臣団からは撤退を進言されていたが、勝頼は上述の通り織田の勢力拡大を危惧していたことや、先の戦で兵の士気が高まっていたことなどからこの声を制し決戦に挑んだとされる。序盤こそ佐久間信盛滝川一益羽柴秀吉ら織田家の部将たちを圧倒したが、結果として武田軍は大敗を喫し、山県昌景馬場信春内藤昌豊をはじめとする有力武将を含む多くの戦死者を出した。

一般的にはこれ以降衰退の一途をたどったとされるが、実際はそれほど一方的に衰退したわけでなく(長篠の戦いは1575年、武田家滅亡は1582年)、敗戦後すぐに織田領に侵攻するだけの力があった。


没落そして滅亡

長篠からしばらく後、将軍・足利義昭の呼びかけにより、武田・北条・上杉の三者の間での和睦(甲相越三和)が提案され、勝頼はこれを受け入れることを表明。実際のところ、勝頼は信玄から「何か困ったら謙信を頼れ」という遺言を受けており、長篠敗戦後窮地にあった勝頼にとっては渡りに船であったとされる。その後、10月には武田・上杉間の和睦が成立。以降、かつての仇敵であった上杉との外交関係を修復に努め、妹・菊姫を謙信の養子(後の後継)になっていた上杉景勝に嫁がせている。北条は信玄死後、上杉と再び不和になりこの三和にこそ拒絶したが、武田とは信玄時代より親交が深いことや、勝頼が北条氏政の六女(北条夫人)を後室に迎えるなど関係が強められた。

しかしながら、天下を取る勢いであった織田家の前に対策を急ぎ過ぎたことや合戦に加えて新府城の築城で負担を強いられた家臣団が離れ、一族からも見放される。特に、一門衆の中でも対織田戦線の要衝「木曽谷」を抑えていた妹婿・木曽義昌、対徳川戦線の要衝である江尻城を任せていた姉婿・穴山梅雪の離反は致命的だった。また謙信急死後に上杉家で勃発した御館の乱で北条家が推した上杉景虎北条氏康の子)につかなかった事(※)で北条家と対立し、佐竹家と組んで(甲佐同盟)これに対抗するも織田・徳川・北条の攻勢を支えきれず、1582年織田軍に攻められ、武田家は実質滅亡する。

その後、岩櫃城主・真田昌幸と岩殿山城主・小山田信茂がそれぞれ勝頼の受け入れを表明したが、勝頼はより近い信茂の方を選択した。しかし信茂が勝頼を裏切ったため進退窮まり、一族郎党共々自害した。享年37歳。この時一緒に自害した嫡男信勝は16歳、後妻の北条夫人もわずか19歳だったという。

(※)実際は上杉景虎の方に付いていたが、上杉景勝の「上杉家の領土(上野沼田城)のうち一部を武田家に割譲と2万両の黄金の支払い」という条件付きの和睦を受け入れて景虎側とも和平の交渉を行い、以後は中立の姿勢を取ったというのが事実である。

後世の評価

長篠の戦いで織田信長の前に大惨敗を喫したことで名前は知られる。その後名門甲斐武田家を一代で滅ぼしてしまったということで後世の評価は決して良くはない。

その要因の一つとされる家臣との不和については、彼自身の人間性に問題があったというよりも、その出自や経歴が原因したという見方もされる。勝頼の母・諏訪姫の家系である諏訪氏は、勝頼の祖父(信玄の父)・武田信虎の代に同盟関係にあったが、その信虎を信玄が追放、加えて諏訪頼重が上杉憲政との和睦交渉を信玄が「盟約違反」としたことにより関係は手切れとなっていた。その後、信玄は諏訪氏を侵攻の末に制圧。以降も諏訪家臣団である残党や高遠頼継に諏訪満隆(頼重の叔父)らの反乱に追われることになる。

この戦いの中で信玄は当初、諏訪氏に侵攻する大義名分として頼重の子・千代宮丸を擁立したが、やがてこれを破棄。千代宮丸を大叔父・満隆の反乱時に殺害し代わりに自身と諏訪姫の生まれてくる子を立て、諏訪氏を継承させる路線に変更した。当初、敵将の娘である諏訪姫を側室に迎えることに対して家臣団から反対論も上がったとされる。また宗教面でも、富士山を中心とする浅間信仰と、諏訪湖を中心とする諏訪信仰の対立があったとも言われている。

そうした複雑な事情を背負って生まれてきたのが勝頼であり、加えて、上述通り信玄の正室(三条の方)の子らが尽く後継から退いた経緯なども相まって(特に義信に同情的な)家臣団から悪評を被ったとも推測される。また「勝頼が武田氏の通字である『信』の字ではなく、諏訪氏の『頼』の字を継承している」ことや「朝廷から官位を授かっていない(信長の妨害があったとされる)」なども一因しているとも考えられる。勝頼が信玄死後、遺訓を破ってまで領土拡大に転じたのも、そうした家臣たちから向けられる不満をいち早く成果を上げることで払拭したかったのかもしれない。しかし、それは家臣たちの軍役負担を増やすことにも繋がったためそれに付いていけない家臣たちとの溝をさらに深める結果となってしまった。

その上、信玄の晩年頃から武田家中では家臣団の対立が起きていたのも要因に上げられる。武田家の領土は甲斐1国であったのを、信玄1代で信濃、西上野、駿河、遠江や美濃の一部にまで拡大した為、信玄は内藤馬場高坂真田らの重臣達を各地の統治当たらせる城代に任命した。一方で甲斐本国に在中し、内政や外交文書を発行する跡部土屋長坂三枝ら奉行人は、武田家の領土拡大と伴い、次第に当主である信玄に代わりに各地の城代に指示を出すようになっていった。その中で、自分が蔑ろにされていると感じた城代は奉行人に反発するようになり、奉行人にも主君の命令聞かない城代を敵視するようになってしまった。そのことが原因で、武田家は勝頼指示派の奉行人と勝頼反対派の城代で2分してしまうのである。

一方で、戦闘面では武田家の中でも突出しており、政敵である謙信や信長もその武勇を評価・警戒するほどの武将であったとされる。永禄6年(1563年)の上野箕輪城攻めを初陣とし、数々の戦で武功をあげており、その中でも白兵戦での活躍が多く残されている。ただ、それがかえって他国に危機感を与え、信長&家康の大軍を呼び寄せた結果につながったともみられ、「強すぎたがために身を滅ぼした」ともいえる。

加えて言うなら滅亡の要因となったのは織田家の攻勢ではなく、武田家内部の家臣との争いであったとされる向きも多い。元々信玄が今川家を裏切って義信を廃嫡しなければ武田家滅亡は起きなかったであろうともされ、信玄の代ですでにその要因はあったと言われる。実際、信長は勝頼の死後「武田家が滅亡したのも信玄があまりに不義理だった報いだ」と吐き捨てたという。
また、信玄存命時の義理を平然と捨てる外交戦術が織田や徳川から白い目で見られており外交的にそれを挽回できる要素が無く信長が武田家を滅亡させる方向にシフトしていたこと、御館の乱での行動で景虎を見殺しにする形となり北条氏から三下り半を突き付けられ、かわりの同盟相手となるはずだった上杉家の方はというと乱の後始末に手間取り大幅に弱体化したため当てに出来なくなってしまうなど親子二代にわたる外交面での失敗の数々も無視できない。

…とは言え、勝頼という人物に語る上で、父・武田信玄や宿敵・織田信長、徳川家康という、日本史に大きな影響を与えた各人に触れることは決して避けられず、その上で、現在までその偉業が広く語られる彼らと天秤にかけられることも必然的に起こるため、今川氏真北条氏政氏直父子と同様に『家を滅ぼしてしまった当主』という肩書きはこの先ずっと彼に付いて回るであろう。北隣に御館の乱以降常に軍事的にも内政的にも弱体化し一時は勝頼よりもヤバい状態になっておりいつ滅亡してもおかしくなかったのに、なんとか本能寺の変あたりまで粘った結果奇跡的に滅亡を免れ、その後もなんだかんだありながら江戸時代末期まで大名として命脈を保ちある程度の評価を得られた上杉景勝がいるのも彼の低評価の一因かもしれない・・・

創作

戦国大戦

武田勝頼


そんな彼ではあるが、SEGAのアーケードカードゲーム「戦国大戦」においてVer.1.10「1570 魔王上洛す」より、武田家の武将として参戦を果たした。
二つ名は「虎を継ぐ者」。
『最強武田軍はこの俺が引き継ぐ!』(開戦前)や、『俺が新しき虎となり、天下を掴み覇を唱える!』(落城時)など、父・信玄の後継者としての意識が強い台詞が多い。

コスト3で武力10/統率3の騎馬隊で、特技は「気合」と「魅力」と、父・信玄に負けず劣らずの充実したスペックを誇る。

武力10はSRの父(計略「風林火山」の方)とSR仕様の山県昌景、SS(戦国数寄)の秋山信友に比肩するほど高く、特技は山県と秋山の持つものを両方有している(前者から魅力、後者から気合)。

その反面、「家臣団との折り合いが悪かった」という史実を鑑みたのか統率が3と低く、妨害やダメージ計略などの「統率に依存する」ものには滅法弱いが、それさえ補えれば騎馬隊の速度・「気合」・高武力により高い火力・耐久力を存分に活かせる。

持ち計略の「猛進の陣」は、勝頼を中心に長方形の陣形を展開し、範囲内の味方武将の武力・移動速度を大幅に高めるもの。
使用する士気は4と、費用対効果は同等量の采配・陣形はもちろん、大名采配(陣形)クラスの計略ですらも凌ぐ。
ただしその分効果時間はかなり短く、「各々が向いている方向」へ強制的に前進してしまうという非常に厄介な制約が付いているために非常に使いにくいのが難点。
適当に使うとあさっての方向に行ってしまったり、敵に突っ込んでいっても回避されてしまうとその時点で意味をなさなくなってしまう。
向きの調整にミスした状態で撃ってしまうと士気4点を破棄するのと同義な上、「停止できない」ことで、大筒の維持や奪取をすることすらできない。
ver1.20以前では、敵の攻城エリアまで行けたとしても跳ねかえってしまって攻城することも出来なかったが、修正されて現在は攻城エリアまで行ければそこで留まり、攻城できるようになった。
ちなみに、この強制前進効果の優先度はとんでもなく高く、挑発を受けようが秘剣計略のチャージ中だろうが鉄砲の発砲中だろうが、挙句の果てには舞踊計略の最中の舞姫(舞踊計略が女性武将しか持たないため)であろうが強制前進させてしまう。
挑発などを打ち消す・秘剣チャージ中の味方を無理やり動かすなど、強制前進を生かすことも可能だが、鉄砲の発砲停止をしたいところで出来なかったり、舞踊状態の舞姫を防御するために使ったら却って危険に晒してしまうなどといった事態に陥りかねないことに留意してほしい。

スペックから計略まで癖が強いために使い手を選び、一度ハマれば圧倒的な粉砕力を活かせることが出来るが、駄目な時はとことん駄目というピーキーさが特徴。
ただし潜在能力は高いので、そこはプレイヤーの腕の見せ所。
彼を正しく導いていき、彼とともに「最強武田軍」の力を見せつけてやろう。

「最強武田軍の名は、俺が引き継ぐ!」


【戦国大戦】全ては、無に帰したか


さらに彼には2枚目の勝頼が実装された。こちらは1枚目と比べて台詞がかなり暗い。例としては『武田の誇りを、勝頼の意地を張る見よッ』(開戦時)
2つ名は「手負いの虎」。
SRの騎馬隊で武力8、統率6の2,5コストの騎馬隊で特技として「魅力」と「気合」を持ち。
1枚目よりも武力は下がったものの、代わりに統率が上がったので、妨害計略や統率差ダメージ計略に強くなった。
計略は「万死一生」横長の長方形の範囲いる自分を含む味方の武力を最低でも5上げ、突撃ダメージと槍撃ダメージを上げる。
士気7使用で武力5はやや物足りない気がするが、この計略にはさらに続きがあり、兵力が減少すればするほど武力が上がり、最大で10上がる。
さらに武田家は槍騎馬が多く、気合や軍備持ちが多く耐久力が高い武将が多いので環境的に非常に噛み合っている。





信長の野望

初期から登場。シリーズ通じて武勇は優れている。途中から武勇以外は壊滅的という猪武者と化していたが、最近は政治や智謀も底上げされシリーズ初期に近い能力になっている。

戦国無双シリーズ

信玄亡き後の武田家当主。長らくモブ武将としての登場だったが、2016年の番外タイトル『戦国無双真田丸』にてPC化。
詳細⇒武田勝頼(戦国無双)

殿といっしょ

諏訪御料人(諏訪姫)の息子であり、晴信(出家前の信玄)が知らぬ間に生まれていたらしいが、顔は信玄に瓜二つ。
晴信にこれっぽっちの敬意も抱いていない山本勘助真田幸隆コンビに育てられたため非常に大雑把で短絡的な子供に育っているが、母親思いであり、病床の御料人を安心させるために家督を強請ろうとした。

大人になってからは顔は晴信により生き写しになっているが、性格の大雑把さには拍車がかかっており、風林火山を失敗談だと思い込んでいたり、よりにもよって「」の字を気に入って部下に与えようとする(しかも「」と誤記する)などかなりの残念な当主である。
一方で敵との駆け引きは父親譲り(?)の手練れぶりを見せており、鳥居強右衛門を捕まえた際にはいとも簡単に黒幕を見つけている(強右衛門がマヌケすぎたのもあるが)。

信長の忍び真田魂

側室の子であり、本来は家督を継げなかったことをコンプレックスに思い、偉大すぎる父の残光を乗り越えることに躍起になっている。
顔は信玄そっくりだが、温泉好きは全く受け継いでいない。
真田昌幸からは「強すぎたる大将」であることを危惧されており、戦こそ信長や謙信からも警戒されるほどの名将であるものの、負けん気が強く、逃げることや弱みを見せることを極端に嫌う一面を持つ。

長篠の戦いでは惨敗を喫し、支えてくれた配下たちを悉く失ったショックから自身も信長軍に特攻し討ち死にしようと漏らすも、昌幸から叱咤激励され、撤退を決意。
その後、織田・徳川・北条の総攻撃を受けて家臣たちは次々逃走し、落ちのびる予定だった岩殿城の小山田信茂から見捨てられ、天目山に追いつめられる。息子を、家臣を次々と失う中、正室・北条夫人と共に自ら命を絶った。
直後、真田郷で勝頼の死を知った昌幸は無謀にも小山田へのお礼参りまで思い立つほど激情するものの、そこに勝頼の霊が現れる。

勝頼「昌幸 すまんが先に逝く 世話になったな」
昌幸「殿を失ってはワシにはもう何も…!」

勝頼「あるじゃないか…お前にはまだ それを大切にするんだぞ…」

その後『軍師黒田官兵衛伝』作中にて、羽柴秀吉の下に「武田家滅亡」の知らせが届くこととなる…。

『真田魂』において、その後も…

ドラマでの演者

なお、美木は翌年の大河ドラマでは降板したジョニー大倉の代役として馬場信春を演じている。

真木は子役時の晴信(信玄)と二役である。
当時の名前は隆哉。
岳大の父・平幹二朗はかつて祖父の信虎を演じており話題になった。

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