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小山田信有

おやまだのぶあり

小山田信有とは、戦国時代の武将。甲斐武田氏に仕えた人物であり、同姓同名の人物が三人いる。
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はじめに編集

郡内小山田氏の小山田信有という人物は、当主が三代連続で甲斐武田氏に仕えたため、混乱が生じやすい。

従って、本記事では小山田信茂からみて、どの信有がどういった関係にあたるのかに触れてから解説する。


初代信有(越中守)編集

信茂からみて、祖父あるいは叔父にあたる人物。


越中守は1488年に、小山田弥太郎の子として生まれたとされる。

当時の甲斐国内では、甲斐守護の地位を巡って当主である武田信縄と信縄の父で先代当主に当たる武田信昌に信縄の弟である油川信恵が争っていたが、足利茶々丸上杉顕定今川氏親伊勢宗瑞の抗争で信縄が宗瑞に伊豆を追われた茶々丸を保護したこともあり争いは激化した。その後、信昌と信縄の病死後に信縄の嫡男である信直(のちの信虎)が家督を相続したが、それを認めない信恵によって争いが続いており、郡内小山田氏は信昌や信恵側についていた。


1508年に、信恵は弟の岩手縄美や栗原昌種と図り三兄弟は若輩の信直を討つべく挙兵し弥太郎らも加わるも、あべこべ信恵・縄美・昌種三兄弟及びその嫡子を含む親族がことごとく討たれるという大敗をしてしまう。

弥太郎らは同年に報復として信直改め信虎を討つべく挙兵するも信虎に返り討ちに遭い、弥太郎は討死し、家老小山田弾正は伊勢宗瑞の元に亡命し、郡内小山田氏は甲斐武田氏の従属を余儀なくされる。

しかし郡内小山田氏の力は大きく、形式上は郡内小山田氏は甲斐武田氏と台頭な立場を持つ同盟関係ないし、武田家傘下の有力国人という立場にあり、単なる武田家臣や一門ではないやや特殊な立ち位置にいた。


父の死で家督を継いだ越中守は、大井氏や逸見氏といった反信虎派の国人、並びに氏親や宗瑞の嫡男・北条氏綱との戦いで、多くの家臣や一門を失うも武功をあげ、信虎の甲斐統一に貢献する。


その後、1532年あるいは1541年に病死したと伝わる。

享年51ないし60。


二代目信有(出羽守)編集

信茂の父。

一般的に創作物に登場する小山田信有はだいたいこの二代目の出羽守を指す。


出羽守は、越中守の子または弟とされる。生誕は1519年とされるが完全に確定していない。


出羽守の代では、武田家中における譜代家老衆扱いをされていたと伝わっており、屋敷を甲府に置くことを命じられており、これは監視の役割もあったものの武田家中における重臣としての立場を保証するものでもある。


出羽守は父である越中守が1541年に病死したことで、家督を相続し、信虎の子である晴信(のち信玄)に仕えた。


出羽守は武勇に優れた武将だったようで、1542年の高遠頼継との武田軍が激突した宮川の戦いにおいて、武功を立て主君晴信から感状を貰っている。

1547年の武田軍の大規模な軍事活動であった佐久侵攻では、笠原清繁らが籠る笠原城を攻め立て落城させることに貢献し、清繁の後室を妾することを晴信に許可され側室にしている。


中でも、1548年の上田原の戦いにおいては、譜代家老である板垣信方甘利虎泰が討死にし、晴信も手傷を負う大敗を喫したが、小山田勢の奮戦で晴信が討たれることは回避できた。一説には出羽守は別働隊を率いて敵将村上義清の本陣を急襲し、村上勢の追撃を止めさせ、本隊が陣を立て直す時間を稼いだとも伝わる。


その傍ら、武田家の重臣且つ形式上は武田家の同盟者という立場を生かして、後北条氏との関係を取り持つ取次を務めており、また武田家に臣従あるいは降伏する信濃の国衆との仲介を請け負っている。


1550年の晴信最大の敗戦と言われ横田高松らを失った砥石崩れでは、小山田勢は奮戦するも有力な家臣を多数失い、出羽守自身も重傷を負う。


出羽守はこれ以降一線を退き、1552年に砥石崩れの戦傷あるいは病気が原因で死去する。

1519年生誕説に則れば享年33。


出羽守には元笠原清繁の後室に殺害されたとの伝承もあり2006年のNHK大河ドラマ風林火山」ではこの説が採用されている。ちなみに彼女は「風林火山」と違って信玄よりも長生きしており長篠・設楽原の戦いから3年後の1578年に52歳で逝去し信茂に丁重に葬られたとされている。


三代目信有(弥三郎)編集

信茂からみて、長兄にあたる人物。

最近まで信茂の通称とされてきた弥三郎から信茂と同一人物に思われていたが、信茂の通称が弥五郎であることが明らかになったことで別人であることが確定した。


生年ははっきりしないもの、出羽守の長男として1540年前後に生まれたとされる。

出羽守が引退した砥石崩れ以降家督を継いだされ、弥三郎の初見は晴信の母大井夫人が1552年に亡くなった葬式で、焼香を行った家臣として記録に出て来る。


父同様、郡内小山田氏の複雑な立場を利用して、後北条氏との取次を務めており、甲相駿三国同盟締結において重要な働きをした人物である。


弥三郎は優秀な人物であったが生来より病弱であったとされ、1561年の八幡原の戦いでは弟の信茂を派遣し、これ以降活動が見られくなる。


その後、1565年に病死した。

享年25前後とされる。


フィクションでの小山田出羽守信有編集

NHK大河ドラマ編集


ゲーム編集

覇王伝から登場。信茂共々作品によって評価が変わる。能力はなかなかのものだが史実通り早世するので長い活躍は望めない。


武田家所属の2コスト武力7知力6の槍足軽で「軍備」持ち。

標準武力ながら中知力に兵力が少し多めなので、バランスよく耐久力もやや高めのスペックと優秀だが、武田の2コストには他にも優秀な槍足軽が豊富なのが悩みの種。


計略は士気5の妨害計略「万死の力萎え」。

内容は兵力が少なければ少ない程敵の武力を下げるというもの。効果そのものは優秀だが、効果を生かせば生かそうとするほど、撤退のリスクがあり非常に使いにくい。

ただし、使い越せて上手くハマった時の強さは抜群である。



関連タグ編集

小山田信茂

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