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武田信繁

たけだのぶしげ

武田信繁とは、甲信地方の戦国武将。兄である武田信玄を補佐した「真の副将」であり、官職である左馬助の唐名から「典厩(てんきゅう)」とも呼ばれている。(1525年-1561年)
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概要編集

甲斐武田氏18代目・武田信虎の子として大永5年(1525年)に生まれる。母は大井夫人。

信虎からは幼少の頃より寵愛されており、兄の晴信を廃して家督を譲ろうとしていたほどであったと伝わっている。

天文10年(1541年)の晴信や板垣信方らによる信虎追放劇と晴信の家督相続に協力。以降は、御一門衆の筆頭として晴信の補佐に当たり、軍事・政務の両面において、諏訪頼重小笠原長時上杉憲政村上義清らとの戦いなど武田氏の版図拡大に貢献している。


天文19(1550)年に信玄の嫡男・義信が元服すると、義信への配慮からか翌天文20(1551)年には武田氏の庶流・吉田氏の名跡を継ぎ「吉田信繁」を称したとされる(『高白斎記』)。


永禄4年9月10日(1561年10月18日)、上杉政虎(謙信)との第4次川中島の戦いにおいて、政虎に裏を掻かれて本陣を急襲され必死に応戦するが、奮闘虚しく37歳で討ち死にを遂げる。兄・信玄や武田家臣団のみならず、政虎や北条氏康織田信長などからもその死を悼まれていた。

また、信玄を諌められる数少ない一人である上に、義信の事実上の後見人とも言える信繁が戦死しなければ、後年の信玄の暴走の数々や彼の嫡男である武田義信飯富虎昌との対立も無かったのではないか、とさえ評された。


その評価の高さは江戸時代に至ってもなお健在であり、信繁が嫡男・長老(のちの武田信豊)に残した「武田信繁家訓」が当時の武士の心得として読み継がれていた程であった。


信繁の遺骸は、第4次川中島の戦いにおいて信繁本陣となった鶴巣寺に埋葬された。承応3年(1654年)、松代藩主真田信之が鶴巣寺を典厩寺と改め、信繁の菩提を弔った。真田氏による信繁への敬愛は、武田氏に仕えた信之の父・真田昌幸に端を発し、昌幸は自身の次男にその名を与えている。

息子たち編集

  • 長男:望月信頼

別名武田義勝。通称望月三郎。母の実家である佐久の国衆・望月氏の当主・信雅の養子になる。わずか18歳で早世したが生没年については1544年-1561年と1547年-1564年の二説があり、死因も病死または戦傷死という。

  • 次男:武田信豊

幼名長老。通称六郎次郎。信頼や信永の異母兄弟で嫡男扱いされており信繁死後、家を継ぐ。父譲りの軍才で信玄と後継者の武田勝頼を支え合戦や外交で活躍する。武田家滅亡時、小諸城にて城代の下曽根浄喜に騙され実母や息子ともども自害に追い込まれた。享年34歳。

信豊も父同様「典厩」を称したので「後典厩」と言われた。なお、1580年頃から相模守を称している。

  • 三男:望月信永

通称望月太郎。同母兄・信頼の逝去もあり望月信雅の養子となり望月家を継ぐが長篠の戦いで戦死した。

ドラマなどでの演者編集

NHK大河ドラマ編集

映画・民放ドラマ編集

  • 田村正和:映画『風林火山』(1969年)
  • 石田太郎:映画『天と地と』(1990年)
  • 川野太郎:日本テレビ年末時代劇スペシャル『風林火山』(1992年)

ちなみに田村氏と若松氏は奇しくも同じ2021年4月に逝去(田村氏は3日、若松氏は14日)している。


関連タグ編集

武田信玄 戦国時代 戦国武将

内藤昌豊:信繁没後の武田軍の副将、信繁と並んで「毎事相整う真の副将なり」と評される

真田信繁:武田信繁にあやかって命名されたと伝わる

豊臣秀長:武田家の家臣では無いが、暴走しがちな総大将の兄を諌められる弟の副将という点が共通している。

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