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武田義信

たけだよしのぶ

武田義信とは、甲信地方の戦国武将。武田信玄の嫡男として生まれ、将来を嘱望されるも家臣の謀反計画に連座して廃嫡され、やがて怪死を遂げた。(1538年-1567年)
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概要

生年:天文7年(1538年)
没年:永禄10年10月19日(1567年11月19日)

甲斐武田氏の当主、武田晴信(信玄)の嫡男として甲斐に生まれる。
実弟に海野信親(竜宝)、実妹に黄梅院北条氏政正室)などがいる。

母親は清華七家と言われる朝廷有数の公家である三条家の出身であり、血筋にも申し分のない、れっきとした武田氏の後継者と言える存在であった。

生涯

武田氏嫡男として

天文10年(1541年)、武田晴信がその父親である武田信虎を追放し武田家当主に就任してからは、その後継者としてより厚い待遇を受ける事になった。
天文19年(1550年)に元服の折には駿河の今川義元の娘を正室に迎えている。
この縁組は、当時武田氏と同盟関係にあった今川氏との関係強化の一環であると共にしばらく後に締結される甲相駿三国同盟への布石であるとも考えられている。

天文21年(1552年)の初陣に際しては飯富虎昌小幡虎盛原虎胤といった当時武田家中でも特に重きをなしていた家臣達が義信を支え、義信もまた期待に応え小諸城を落とし、武田氏に反旗を翻した佐久郡の知久氏を降伏させた。

翌天文22年(1553年)には、室町幕府13代将軍・足利義輝の偏諱を受けて義信と名乗った。
永禄元年(1558年)には准三管領に任命され、翌年には信濃守護となった父の武田晴信とともに親子で書状に署名し、武田氏の跡継ぎは義信である事を内外に知らしめている。

永禄4年(1561年)の川中島の戦いにも参加し、この時上杉政虎(謙信)の本陣を急襲、一時は政虎の旗本衆の過半数を敗走させ、名のある武将も複数討ち取ったと伝わる。

失脚とその末路

このように、武田氏の跡継ぎとして順風満帆な人生を送って来た義信であったが、その運命が一気に暗転する事件が、永禄7年(1564年)に発生する。
事の起こりは、義信の傅役・飯富虎昌らが企てた謀反が、虎昌の弟に当たる飯富三郎兵衛の密書によって露見した事に始まる。

翌永禄8年(1565年)1月、虎昌らは謀反の首謀者として処刑され義信もまたこの謀反に連座して廃嫡されると共に、甲府の東光寺にて幽閉の憂き目に遭う。
義信自身は東光寺に幽閉されてから2年後の永禄10年(1567年)、30年の生涯に幕を下ろす事となる。
義信の最期に関しては、自害説と病死説の2説がある。なお、義信の法名には「籌(ちゅう)」という謀略や策略を意味する字が使われている。
死後、正室と1人娘は今川氏へと送り返され、正室はそこで尼になったという。

廃嫡の原因とその背景

この謀叛の原因については諸説あるが、現在主流とされているのは武田氏内部で燻っていた外交路線による対立である、との見解である。
この謀反と前後して、信玄は義信の異母弟に当たる諏訪勝頼に、織田信長の養女を娶らせており、今川氏を刺激するような行動にも度々及んでいた。

織田・徳川といった勢力と結託し、あわよくば駿河を奪おうと考えていた信玄と、今川・北条と協調し、従来からの三国同盟を重んじようとした義信の対立がこの謀反の根幹にあるというのである。

また、信玄が強引過ぎる形で義信やその重臣達を失脚に追い込んだのは、極めて恣意的な理由からであったともされている。
父・信虎に反感を抱き、彼を追放処分にする形で武田氏の家督を受け継いでいた信玄はその経緯から、同盟相手のみならず身内に対しても、強い猜疑心を持っていた。

今川氏との同盟破棄の際に義信がそれに異を唱えた事で、自分も息子である彼によって全てを奪われるかもしれないと思い込んだ結果、以前より対立する事も少なくなかった虎昌らと共に謀反を目論んでいると言いがかりをつけ、義信を幽閉に追い込み、虎昌達には切腹を言いつけた背景にあるのではないかとも言われている。

物語の類では、敗者側である義信の方針が一見誤りのように描かれる事も少なくないが、実のところ今川氏と断交し三国同盟を破棄することは、武田が今川・北条・上杉の三者に挟撃される事にも繋がりかねず、義信のその懸念が後年、最悪な形で現実のものとなった事は今更説明するまでもあるまい。

さらには同調していた徳川家康とも、駿河における勢力圏を巡り対立を迫られるなど、武田氏は駿河侵攻を経て、周りがほとんど全て敵という状況に苦しめられる事になる。
この時唯一の味方だったのがあの織田信長なのだが、その後信長は足利義昭を奉じて上洛。押しも押されもせぬ天下第一の巨大勢力になってしまった。

やがて武田氏は織田氏とも対立路線を歩み、最終的に信長と家康の侵攻によって滅ぼされる事になるのは、歴史を知る人なら当然の知識であろう。

後年、武田の遺臣によって書かれた甲陽軍鑑には「賢明過ぎて身を滅ぼした大将」として「強過ぎて身を滅ぼした大将」である弟・勝頼と列記されているので、後年の武田の家臣達は義信の危惧の正しさを痛感している者が少なくなかったと思われる。

後に「義信事件」とも称されるこの対立により、飯富虎昌をはじめ長坂氏、穴山氏、曾根氏など多くの武田の重臣が連座して処分を受けるようになり
武田家臣団の中枢が一新される事になった。
この影響は次代である武田勝頼の時代に負の遺産として残る事になり後に勝頼を裏切った穴山信君も、弟の穴山彦八郎がこの事件で連座切腹しているなど先の飯富虎昌と三郎兵衛の関係なども併せて、この事件による対立・分裂の構図が家臣の身内にまでも波及していた事が窺える。

義信の死からわずか1年2ヶ月後、武田氏は駿河への侵攻を開始し
今川氏との戦争に突入するのであるが、義信らの処分を決行した信玄の采配は結局の所、武田氏そのものの滅亡にまで多大な影響を与える事になったのである。

フィクションでの演者

NHK大河ドラマ


映画・民放ドラマ


関連項目

武田信玄 武田勝頼 今川義元 飯富虎昌 上杉謙信

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