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武田義信

たけだよしのぶ

武田義信(1538~1567)は、戦国時代の武将。武田信玄の嫡男であり、武田勝頼の兄にあたる
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概要


武田家当主、武田晴信の嫡男として甲斐に生まれる。
母親は清華七家と言われる朝廷有数の公家である三条家の夫人であり、
血筋にも申し分のない、武田家後継者と言える存在であった。

1541年に武田晴信がその父親である武田信虎を追放して
武田家当主に就任してからはその後継者としてより厚い待遇を受ける事になり、
1552年の初陣時には飯富虎昌小幡虎盛原虎胤と言った
当時武田家中でもそうそうたる重臣が義信を支え、義信もまた期待に応え小諸城を降伏させた。
この前年には今川義元の娘を正室に迎えている。

1553年には足利義輝の偏諱を受けて義信と名乗った。1558年には准三管領に任命され
翌年には信濃守護となった父の武田晴信とともに親子で書状に署名し
武田家の跡継ぎは義信である事を内外に知らしめている。
1561年の川中島合戦にも参加し、上杉謙信相手に善戦したと言われる。

失脚とその末路

しかし1565年、父・信玄から、重臣でもある飯富虎昌らと謀叛を企んだとして、廃嫡され東光寺に幽閉されてしまう。

この謀叛の原因については諸説あるが、今川家を含めた武田家の外交路線による対立であるとの見解が主流である。
同時期には弟の諏訪勝頼が、織田信長の養女を娶るなど今川家を刺激し、あわよくば領土を奪おうと考えていた武田信玄と、今川家、北条家と協調し、従来からの三国同盟を重んじようとした武田義信の対立が原因であった。
三条夫人が悪妻であったというのも、あの人のイメージに尾ひれがついただけであり、実際は義信と良き夫婦関係を築いていた。
いくら義元が桶狭間の戦いで散ったとはいえ、良き関係であった妻の実家との同盟を破棄するなど、義信には耐えられなかったとしてもおかしくは無かったと言える。

また、信玄が強引強引過ぎる形で義信やその重臣達を失脚に追い込んだのは、極めて恣意的な理由からであったともされている。
父親・信虎に反感を抱き、彼を追放処分にする形で武田家の家督を受け継いでいた信玄は、その経緯から、同盟を結んだ相手だけでなく身内に対しても強い猜疑心を持っていた。
今川家との同盟破棄の際に義信がそれに反対をした事で、自分も息子である彼によって全てを奪われるかもしれないと思い込んだ結果、以前より対立する事も少なくなかった虎昌らと共に謀反を目論んでいると言いがかりをつけ、義信を幽閉に追い込み、虎昌達には切腹を言いつけたのが、事の真相ではないかと言われている。

物語の類では、敗者側である義信の方針が一見誤りのように言われることが多いが、
実のところ今川家と断交し三国同盟を破棄することは、武田家が今川・北条・上杉の三者に挟撃されるという事であり、この武田義信の予感は最悪な形で的中する事になってしまった。
さらには同調していた徳川家康とも対立を迫られるなど、武田家は周りがほとんど全て敵という状況に苦しめられる事になる。
この時唯一の味方は織田信長であったのだが、その後信長は足利義昭を奉じて上洛。
押しも押されぬ天下第一の巨大勢力になってしまった。
やがて武田家は、織田家と対立路線を歩み、最終的に織田信長徳川家康に滅ぼされる事になるのは、歴史を知る人なら当然の知識であろう。

後に「義信事件」とも称されるこの対立により、飯富虎昌をはじめ、長坂氏、穴山氏、曾根氏など多くの武田家重臣が連座して処分を受けるようになり、武田家の中枢が一新される事になった。
この影響は次代である武田勝頼の時代に負の遺産として残る事になり、武田勝頼を裏切った穴山信君は、弟の穴山彦八郎がこの事件で連座切腹している。

武田義信自身は東光寺に幽閉された後、2年後の1567年に死去。享年30。死後正室と1人娘は今川家へと送り返され、正室はそこで尼になったという。
義信の死から2ヶ月後、武田家は今川家との戦争に突入するのであるが、義信らの処分を決行した信玄の采配ミスは、結局の所、武田家そのものの滅亡にまで発展することになった。


関連項目


武田信玄 武田勝頼 今川義元 飯富虎昌 上杉謙信

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