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園光院

えんこういん

園光院とは、戦国時代の人物。武田信玄の嫡男義信の娘。生没年不詳。

概要編集

園光院は、武田義信嶺松院の娘として産まれた。父である義信は武田信玄の嫡男、母親である嶺松院は今川義元の娘であり、信玄と義元から見れば彼女は孫にあたる。


彼女が生まれる前の1550年に父親の義信は元服し、同じ頃義元の元に嫁いでいた信玄の姉が亡くなった。それ故に武田家と今川家は同盟関係を強化する目的で、1552年嶺松院を義信の正室となる。後に、今川家と北条家にも婚姻関係が成立し、甲相駿三国同盟が成立する契機となった婚姻でもあった。


しかし、1560年の母方の祖父である今川義元が桶狭間の戦いで討死すると三国同盟に亀裂が入る。信玄は川中島の戦いで信濃における覇権争いを制すると、金山と海欲しさに今川家との同盟を破棄して駿河を侵略しようと企てる。当時の今川家は今川氏真寿桂尼が再興に尽力していたものの、三河の徳川家康が独立し織田信長と同盟を結んで反今川方に立ち、遠江の国衆達が今川家に対して反乱を起こした為苦境に陥っていた。更に、駿河に追放されていた園光院の曾祖父信虎は今川家の重臣達と度々密会しており不穏な動きを見せていた。


一方義信は、今川家との同盟を破り侵略するのは不義理であると反発し、信玄との対立を深めていく。


1565年4月に美濃で武田家と織田家が軍事衝突する事態が発生したが、信長は信玄と関係を改善させ、信玄の4男諏訪勝頼に信長の養女になっていた遠山氏の娘を嫁がせることを条件に両者は同盟を結んだ。


このことが義信は信玄が織田家と同盟が結ばないように工作活動を親今川派の重臣飯富虎昌と工作活動を行っていたが、織田家との同盟が避けられなくなると信玄の暗殺を計画する。この計画は義信と虎昌、側近の長坂勝繁と曾根虎盛、穴山信君の弟信國、虎昌の弟三郎兵衛昌景が加担した。


しかし、このクーデターは信玄に筒抜けであった。昌景は信玄に義信や虎昌が立てた計画をつぶさに報告し、計画は未然に防がれ、義信らは全員拘束。義信は幽閉され後の廃嫡され2年後に病死、虎昌らは責任を取る形で自害した。


伯父氏真が、北条氏を通じて嶺松院達を駿河に帰国させるよう要請した。

園光院は1568年に駿河の今川家を頼って落ち延びた。その後の動向は不明である。


母の嶺松院は出家し、貞春尼と称した(「甲斐国志」)。後に貞春尼は、徳川秀忠の教育係(御介錯上臈)を任され徳川家に仕えていた。(「今川家瀬名家記」)


…と乱世の不条理に振りまわされた悲劇のヒロインだが、婚姻等等で歴史の表舞台に立たずに生涯を終えた為、武田氏や今川氏が好きな戦国マニアですら、近年まで認知していることはなかった。



戦国大戦編集

センシティブな作品

SEGAのアーケードゲーム戦国大戦の限定カードして実装。

その時のカードが井伊直虎共に華やかなベッドで横たわる姿で描かれ、名前の読みがある行為と同じだったり、計略名が「秋葉の妖精」とオタクを意識したりしたものであった為かなりの注目を浴びた。


その後、メイン画像のイラストで実装。

武田家所属の1,5コスト弓足軽で武力4とやや低めだが、統率が8と非常に高く、「魅力」・「防柵」・「軍備」の3つの特技を保有している為、ハイスペックなカードになる。

計略は、武田家では初めてとなるライン計略で、武田家の味方の武力と城攻撃力が上がり、連結させた部隊の数が多い程射程が伸びるというものになっている。

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