概要
赤備え(あかぞなえ)とは、日本の戦国時代に存在した部隊の一つである。
解説
具足、旗差物などのあらゆる武具・装飾を朱塗りにした部隊。戦国時代では赤以外にも黒色・黄色等の色で統一された"色備え"があったが、当時赤は高級品である辰砂で出されている。
戦場でも特に目立つため、赤備えは特に武勇に秀でた武将が率いた精鋭部隊である事が多く、後世に武勇の誉れの象徴として語り継がれた。
武田の赤備え
赤備えを最初に率いた武将は甲斐の武田信玄に仕えた飯富虎昌とされ、以後赤備えは専ら甲斐武田軍団の代名詞となる。虎昌が「義信事件」で処断されたあと、弟(甥とも)の山県昌景が赤備えを受け継いだとされる。近年の研究では昌景が赤備えを率いたことは疑問視されているが、少なくとも小幡信貞や浅利信種には赤備えを率いた記録がある。信種が三増峠の戦いで討死すると内藤昌豊が信種の赤備えを引き継いだとされる記録があったり、信玄の後を継いだ武田勝頼が赤備えを率いていた従弟の武田信豊に兵装を黒一色に統一する黒備えにすることを許可する文書の発見から、武田の赤備えは複数名の武将が率いていたとされる。
井伊と真田の赤備え
1582年の織田信長・徳川家康・北条氏政による甲州征伐で武田家は滅亡したが、三方ヶ原の戦いなどで武田軍の強さが身に染みていた家康は(信長の命に反することを承知で)生き残りの武田家の将士を召し抱え、元赤備えの兵を井伊直政に預けた。直政は家康の期待に応え彼らを率いて小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いなどで勇猛果敢な活躍を見せ森長可や島津豊久らの猛将を討ち取っている。これにより、武田の赤備えは"井伊の赤備え"と名を変えつつ、名実ともに戦国最強の騎馬部隊として今日に語り継がれることとなっている。また、赤自体が井伊家のトレードマークとなり直政の「井伊の赤鬼(赤夜叉)」、直政の子孫の直弼の「井伊の赤牛」のあだ名もここから来ている。
また、大坂の陣では徳川方では直政の次男・直孝が父以来の赤備えを率いて戦った。一方、豊臣方でも真田昌幸の次男・信繁が赤備えに身を包んで徳川の軍勢に立ち向かったが、これも(かつて昌幸が仕えた)武田家の赤備えを意識してのものであったと言われている。
余談だが「真田の赤備え」は大坂の陣で用いたのが有名だが、文禄2年(1593年)に秀吉から「武者揃」を命じられた信之が「いつものことくあか武者(赤備え)たるへく、指物はあかね」という指示を家臣に出しており、既に文禄年間には真田氏は甲冑と指物には赤を使用していた。
赤備えの終わり
戦国から江戸時代を通じて維持され続けた井伊の赤備えであったが、開国後に西洋流の戦術や軍装が主流になっていった幕末においては時代遅れの代物と化してしまう。特に第二次長州征伐(四境戦争)における石州口の戦いにて彦根藩兵は長州藩の参謀・大村益次郎が取った狙撃兵を有効活用する散兵戦術に翻弄され、さらに夜襲を受けた際に敵味方の判別が容易という弱点を晒し、以降も格好の的となる事態を招いてしまう。鳥羽伏見の戦いに於いて彦根藩兵はそれまでの装備を全員脱ぎ捨てて新政府軍に寝返り、ここに赤備えの伝統は姿を消すこととなった。