概要
江戸時代初期に起こった、徳川家康・秀忠が率いる江戸幕府と、豊臣秀頼と彼を擁する淀殿(茶々)の豊臣家の二度にわたる合戦の総称。これを日本国内最後の合戦と見なす意見が多く、またこの合戦までを戦国時代とする見方もある。
一般に「徳川家と豊臣家の戦い」と見なされるが、淀殿が織田家や浅井家の血も受け継いでいることから「徳川家 vs 織田家」「徳川家 vs 豊臣家・織田家」とする見方もある。
表記揺れ
大阪の陣 大阪の役 大阪冬の陣 大阪夏の陣 大坂の役 大坂冬の陣 大坂夏の陣
経緯
慶長3年(1598年)に天下人・豊臣秀吉が亡くなり、残された豊臣政権内で家康は対立していた石田三成を慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで倒し、慶長8年(1603年)に家康は朝廷から征夷大将軍に任じられ、江戸に武家政権「江戸幕府」を開府。
一方、大阪(大坂)で置いてけぼり状態にあった淀殿と秀頼は依然として力を持っていたが、淀殿は家康に所領石高を削がれた事で徳川家に対決姿勢を露にしていた。家康は関係改善として秀吉の遺言に基づいて秀忠の娘・千姫を秀頼に嫁がせた。
慶長10年(1605年)に家康は将軍職を秀忠に譲り、自らは大御所として駿府(静岡市)に移り、将軍職は徳川家が世襲するものと示した。この際に家康は秀頼に秀忠への臣下の礼を求めたが、淀殿は豊臣家が徳川家に家臣であると認めたことになるとして断固拒否。翌年に後陽成天皇が後水尾天皇に譲位し、この時に二条城で家康と秀頼の会見は実現した。
しかし、結城秀康、浅野長政、加藤清正、池田輝政、前田利長など徳川家と豊臣家の関係改善に努めてきた大大名が立て続けに亡くなり(俗説では浅野や加藤、池田等は家康に後々禍根を残さぬため消されたともいわれるが、実際にはそれぞれ病死である)、豊臣家は孤立を深め、また食い扶持に困っていた浪人たちを豊臣家は召抱えていた。
一方の幕府では和戦両様で武器や兵器の量産と開発を進め、伏見城・二条城・彦根城・名古屋城・江戸城・駿府城・姫路城など多くの城の造営や再建の普請を進めていた。
方広寺鐘銘事件
そして、慶長19年(1614年)。近畿の寺社造営を進めていた豊臣家は方広寺に設置する梵鐘を鋳造したが、その鐘銘に徳川家の家臣である本多正純が問題ありと見なした。
鐘銘にあった「国家安康」が、主君である「家康」の諱(実名)を引き裂いている非礼な物であるとして立腹したのである。
また、「君臣豊楽」が「豊臣を君として楽しむ」と解釈されること、更には鐘銘序文の「外施仁政」が後水尾天皇の諱政仁を避けていない事等も問題となった。
現在でこそ言い掛かりに聞こえなくもないが、当時としては「諱を二つに割る」という行いは非常に無礼な行いであったのは事実である(日本ではないが、唐では諱を割る事は本当に「呪い」を意味していた)。
そもそも本人に無断で諱を使っている時点で論外である。当時の価値観で言えば、特に親しくない人間が名前を呼ぶ事は大変に失礼な事で、通称あるいは高貴な人物に関しては官職(関ケ原の戦いの頃の家康で言えば「内府」)で呼ぶのが常識である。
にもかかわらず、その失礼な「家康」「政仁」と言う諱を使っている時点で、例え割らなかったとしても無礼極まりない。この点は、数多くの有識者(学者や僧侶)が指摘しており、前代未聞と批判されている。
かつて関ヶ原の戦いの発端となった直江兼続による家康宛に送られた悪意ある挑発的な書状である「直江状」でさえ、家康の事を「内府殿」と指していたのだが、この方広寺の鍾銘に関してはそれをも上回る程の無礼極まりない暴挙だったのである。
鍾銘としてこの様な内容となってしまったのは、内容を考えた僧である文英清韓が豊臣寄りの人物で逆に家康を嫌っていた事、その上で豊臣側の方はちゃんと姓の「豊臣」を使い諱の「秀頼」は使っていなかった事を考えると、悪意が有った可能性は非常に高い。
そして仮に悪意がなければそれはそれで、僧としてあまりに不見識かつ無知であり、大問題である(実際、この件が原因で、後に清韓は責任を取らされる形で寺を追い出され、大阪城へ逃げ込む羽目になっている)。
両者の間で奔走していた片桐且元は、豊臣家の存続を最優先して、豊臣は一大名として征夷大将軍となった家康に臣従すべきであると淀と秀頼を説得。秀頼やその側近である大野治長は賛同しつつあったのだが、淀を始めとする反徳川派は激怒して且元を謀反人とみなし、暗殺寸前にまで追い詰められた且元は、秀頼の仲裁も空しく豊臣家を出てしまう。これによって他の何人かの家臣達も豊臣家と決別する道を選んでしまい、幕府側は「且元は徳川家臣でもあり、交渉役である彼に勝手な処分を下すのは不当である」と主張する。
それに対し、豊臣家は浪人達を更に増員させ、集結していた数は約10万の浪人にまで増え、更に大坂城の周辺には真田信繁を中心に巨大防壁といえる要塞真田丸が建造される事になり、これらから幕府は戦争準備と見なし、家康は全国の大名に出陣を命じ、大坂の陣が始まった。
冬の陣
10月、大阪城を包囲した幕府勢は本多忠朝、真田信吉、佐竹義宣、上杉景勝、井伊直孝、榊原康勝、浅野長晟、藤堂高虎、伊達政宗、立花宗茂など軍勢は約20万。 家康と秀忠は茶臼岳に本陣を構えた。対する豊臣勢は真田信繁・後藤又兵衛・毛利勝永・長宗我部盛親・明石全登の大坂牢人五人衆、豊臣家重臣の大野治長、速水守久、木村重成など。織田有楽斎は合戦直前まで交渉に努めたが、開戦直前に退城した。
大阪城内では方針として治長の篭城派と、信繁の一気に城外へ攻める攻撃派に分かれ、結局篭城に決まった。幕府軍の先制攻撃を皮切りに両軍の戦闘が起こったが、堅城な大阪城は簡単には落ちず、一進一退を繰り返し、冬の寒さも重なって膠着状態に。信繁が城外に築いた要塞「真田丸」で幕府軍を攻撃し、追い返していた。事態打開のために家康は新開発させた大砲を実戦投入。新大砲は射程距離が格段に向上しており、弾丸は大阪城本丸にまで直撃し女中達にも被害が及び、驚いた淀殿はこれを機に和睦に応じた。
和睦を結んだ両者は、条件として大阪城三の丸を壊し、堀を埋め立てることとし、秀頼の身の安全と所領安堵が約束され、12月に休戦協定が結ばれた。
ところが幕府側は取り決めと違って二の丸の外堀までも埋め立ててしまい、大阪城の守りは骨抜き状態になってしまった。この結果、大坂城にいた浪人達は、戦に勝ち目は無いと見なし半数近くまでが去ってしまう事になるのだった。
夏の陣
慶長20年(1615年)3月、既に抵抗力の殆どを失った豊臣家に対し、家康は浪人衆が不穏な動きをしているとし、最後通告として、秀頼の大和(奈良)か伊勢(三重)への移封と浪人たちの追放を要求するも、淀を中心とする豊臣側は断固拒否。これを受けて幕府軍は再び大阪城攻撃のために出陣し、4月に戦闘が始まった。
豊臣勢約5.5万に幕府勢は約15.5万。豊臣勢は浪人ばかりであったため統率が乱れ、厭戦気分も広まっていた。
5月5日に家康と秀忠が到着した時には豊臣勢の攻勢は弱まって後退が続いていたが、7日に信繁・又兵衛・勝永たちによる決死の攻勢が仕掛けられ、戦国有数の最大級にして最後の兵力と火力が集中した激戦となった。とくに信繁は家康のいる本陣にまで分け入り、家康自身もうろたえたほどだったが、討ち取るまでには至らず、一時撤退して休息していた所を討ち死にとなった。
豊臣勢の主力部隊は壊滅し、幕府勢は続々と大阪城へ雪崩れ込んだ。この間に治長は千姫と淀の妹である初を脱出させ、二人は徳川秀忠の下へ生還。千姫は治長の意を受け家康と秀忠に淀殿と秀頼の助命嘆願をする。しかし、武士の世界において「多くの家臣や兵士達を犠牲にして落城寸前まで抵抗した者が助命嘆願をするのは恥」とされており、更には幾度にも及ぶ臣従要求や降伏勧告の全てを拒絶し続け、家臣や兵士達、浪人達、更には民衆達まで巻き添えにしていた以上、助命嘆願が認められるはずも無く、家康に判断を任されていた秀忠は、大阪城への総攻撃を命令。天守閣は炎上し、その炎で大坂の空が照らされる様が京都からも見えたたという。翌朝、立てこもっていた山里丸の倉を包囲された淀殿と秀頼は火を放ち、勝永の介錯で自刃した。かくして大阪城は落城し、豊臣家は滅亡した。
戦後
冬の陣では江戸留守役だった黒田長政も夏の陣で参戦し、後に長政は絵師を集めて「大坂夏の陣図屏風」を作成させた。この絵には徳川方の雑兵たちが民衆への略奪や強姦などの乱暴狼藉の様子が描かれ、現代では「戦国のゲルニカ」とも呼ばれることがある。記録では民衆が一万人以上の偽首(※)に遭い、奴隷狩りも多数起こったという。(※ 少しでも武功を上げるために民衆の首を身分の高い人物に偽ったこと)
ただし、これらについては最後まで降伏・開城をしなかった豊臣秀頼の責任の方が重く、乱暴狼藉、奴隷狩りなどは当時の合戦においては珍しいものではなかったことに留意されたい(戦の際に、雑兵が敵の土地でそれらを行うことは報酬の一環として黙認される傾向が強かった)。
大阪城を脱出していた秀頼の子・国松も捕らえられ処刑。国松を匿おうとした織部は、豊臣方との内通の疑いもあって自刃。
一方で、長宗我部元親の外孫で豊臣方についた父親の佐竹親直とともに大阪城に入った後の柴田朝意は仙台藩の捕虜になるも、伊達騒動の頃には仙台藩の奉行(家老相当職)になっていたり、真田信繁の娘が岩城宣隆の継室になっていたりする。
元号は「元和」と変わり、この合戦を最後に戦国時代から続く大規模合戦は終焉し、戦国乱世の終わりと天下泰平の始まりを意味する「元和偃武」と呼ばれた。
そして、1616年(元和2年)に家康は全てをやり遂げ見届けたように死去した。享年75歳。
異説では秀頼は本当は大阪城を脱出して生き残り信繁と共に薩摩まで逃げ延びたとも、家康は本当は大坂の陣で死んでいてその後は影武者が代役を続けていたとも言われている。
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