ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

目次 [非表示]

概要編集

徳川家康秀忠親子率いる徳川方約15万と豊臣秀頼を総大将とする豊臣方5万が衝突した戦いで大坂夏の陣における合戦の一つ。

この戦による豊臣家の滅亡を持って応仁の乱から続く戦乱の時代に終止符が打たれた。(元和偃武)



経緯編集

一部詳細は大坂の陣も参照

1615年4月から続く戦いにより豊臣方は大きく戦力をすり減らしていた。さらに前日の総力を挙げて関東方を迎え撃った道明寺の戦い八尾・若江の戦い後藤又兵衛木村重成といった勇将達を失い、長曾我部盛親隊も壊滅状態となるなど、もはや勝利は絶望的といった状況まで追い詰められていた。

一方の徳川方も井伊直孝隊が若江の合戦での損害が酷く、予定されていた先鋒を務められなくなり、八尾の合戦で藤堂高虎隊が大損害をだす等の犠牲者を出しつつも着実に大坂城へと迫っていた。


主な参戦武将編集

江戸幕府

徳川家康/徳川秀忠/松平忠直/伊達政宗/黒田長政/藤堂高虎/立花宗茂/細川忠興/井伊直孝/水野勝成


豊臣軍

豊臣秀頼(最後まで出馬せず)/大野治長/真田信繁/毛利勝永/明石全登/大野治房/長宗我部盛親


豊臣軍の作戦編集

豊臣方の作戦内容は全軍を茶臼山から岡山口に並べて徳川方を引き付け先鋒を撃破し、豊臣秀頼が出陣。これにより豊臣全軍の士気が上がったところで前線の精鋭部隊が徳川家康の本陣を目指すと同時に、明石全登隊が迂回して家康本陣の背後に回り込み、とどめを刺すというものであった。

しかし、この作戦は開戦早々にして破綻する。


天王寺口方面の戦況編集

慶長20年5月7日正午頃、毛利勝永隊の寄騎が先走りし徳川方先鋒・本多忠朝隊に向けて銃撃を開始したのを皮切りに戦の火蓋が切られた。当初茶臼山の信繁の陣にいた勝永は作戦の破綻を防ぐため自ら前線に赴くが、ますます銃撃は激しくなるばかりで結局戦術の変更を余儀なくされる。

手始めに本多忠朝を討ち取り、さらに救援に来た小笠原秀政忠脩親子らも撃破(秀政は後に戦傷死、忠脩は討死)するとそのまま天王寺口方面の徳川軍第二陣、三陣である真田信吉真田信政浅野長重秋田実季榊原康勝安藤直次六郷政乗仙石忠政諏訪忠恒松下重綱酒井家次らを蹴散らし家康本陣へと迫る。


一方信繁は作戦の破綻と秀頼が出馬しないことを悟ると暫く静観していたが、毛利隊の活躍と敗走していく徳川軍を見ると好機と思い3500の兵を率いて正面から襲い掛かってくる松平忠直率いる越前勢に突撃を開始する。

数は寄騎勢を含めても自軍の倍以上であり、更に前日に合戦での部隊の動きの鈍さを家康から忠直が叱責されていた事で主・家臣共々その恥を濯ごうと並々ならぬ決意で戦いに臨んでいた忠直隊は手強く、死に物狂いの真田隊でも苦戦。一進一退の攻防が繰り広げられた。


しかし、結果として寡勢の信繁が越前勢の大軍を拘束し、その間に総数では自軍の三倍以上だが、それぞれは自軍より同数以下で、指揮系統の違いから連携がままならない前面の関東勢を勝永がその優秀な野戦能力で各個撃破の様相で突き崩し遂に突破を果たす、両将の両輪の働きが嚙み合った状況が偶然にも生み出されていた。

やがて越前松平隊に混乱が生じ、後ろから崩れ始めた(後方の浅野長晟隊が裏切ったという虚報が流れたとされる)為数百の信繁率いる真田勢にまで突破される事態となったのである。


そして真田隊は家康本陣に突入し、三方ヶ原以来に馬印を倒され、旗本は逃げ回るなど徳川軍は混乱の渦に陥れられた。三度にわたる突撃で家康本人も死を覚悟する程のものだったという。一方毛利隊も家康本陣に突入するも既に真田隊によって蹂躙された後だった。そこに家康本陣の危機を聞き、前日の合戦での痛手から回復もままならない井伊直孝隊、藤堂高虎隊が岡山口から駆けつけるが勝永はこれも撃退している。


しかし、四方を大軍に囲まれたうえに幾度にもわたる奮戦により疲労困憊の極みにあった真田隊の穂先は遂に家康の首に届くことはなかった。茶臼山の真田本陣を占拠した松平忠直隊の反撃をきっかけに徐々にその数を減らしていき最終的には壊滅。信繁本人も安井神社にて休息中のところを襲われ討死してしまう。

真田隊の全滅を聞き、孤立してしまった勝永は不利を悟り大坂城へと撤退。この時もまた徳川軍を撃破しながら撤退している。


家康本陣を奇襲する為待機していた明石全登は、水野勝成隊と松平忠直隊との交戦後に戦場から退却、そのまま姿を消した。


岡山口方面の戦況編集

徳川秀忠は天王寺方面の銃声を聞くと全軍に進撃命令を出す。それに対し岡山口の豊臣軍・大野治房も応戦。大野隊によって岡山口の徳川先鋒・前田利常隊は崩され、第二陣の井伊直孝と藤堂高虎は天王寺口方面の家康本陣の救援に向かった為手薄となり一気に秀忠本陣に豊臣軍が殺到し、混乱状態に。秀忠も一時は後退を考える程だった。だが次第に数で勝る徳川方が体勢を立て直し、優位となった為最終的に大野隊は大坂城に撤退した。


終局編集

大野治長らによる豊臣秀頼の説得が終了し、秀頼が出陣しようとした頃には豊臣軍は壊滅していた。秀頼自身は敵と一戦交え討死しようとしたが、近臣に止められた為最後まで出陣することはなかった。

そしてその日の内に徳川軍が城内に侵入、更に裏切り者がつけた火によって大坂城は炎上。一縷の望みだった徳川方に引き渡された千姫による秀頼の助命交渉も黙殺され、この合戦の翌日秀頼は母の淀殿と治長ら家臣達とともに自害。ここに秀吉が一代で築き上げた豊臣家は滅び、戦国時代は終わりを告げるのであった。


余談・備考編集

  • この戦いと前年の冬の陣における真田丸の戦いで名を上げた真田信繁はその戦いぶりを敵である徳川方にも称賛された。特に家康本陣の近くに配陣しその戦いぶりを間近で見ていた細川忠興は手紙に「左衛門佐、合戦場において討死、古今これなき大手柄」と記している。また、信繁の活躍は遠い九州まで響いており薩摩島津忠恒は手紙に信繁を表す評で有名な「真田日本一の兵」という言葉を残している。そしてのちの世の真田三代記真田十勇士といった講談において幸村の名で知られ最後まで強敵に立ち向かった英雄的存在として一躍人気となった。

  • 毛利勝永は4000の兵を率いて実に10以上の部隊、約2万の兵に対し正面からぶつかり撃破しており信繁に劣らない功績と戦上手っぷりを示したににもかかわらず、家康の本陣を3度に渡って追い詰め、また親子二代にわたって徳川を苦しめた「真田」の名のインパクトが重視されたためか「惜しいかな後世、真田を云いて、毛利を云わず」と言われるようにあまり適正な評価をされなかった。しかし、近年ドラマの影響もあり評価を見直されつつある。

  • 明石全登、大野治房両名の行方は不明である。戦場で死んだとも言われるが、全登に関しては死亡説より生存説がそれ以上に多い。また生存説があるのは全登だけではない。(後述)

  • 長宗我部盛親は大坂城にいたものの前日の八尾・若江の戦いで部隊の殆どを失っており戦闘には直接参加しなかった。落城後、大坂から逃亡するも後に捕らえられ斬首されている。

  • 家康の合戦の中で人的被害が一軍の将に及んだのはこれが初めてである。原因は前線はほぼ同じくらいの兵力であった事と死兵と化した豊臣方の背水の陣ともいえる奮戦っぷり、それとは対照的に勝ち戦にて損害を出したくない徳川方の厭戦ムードも作用したとされる。またこの戦い自体は正午の開戦から3時間の間しか戦っていないことから戦いの激しさを物語っている。

  • 「花のようなる秀頼様を 鬼のようなる真田が連れて 退きも退いたり加護島へ」という童歌があるように信繁と秀頼は実は生存していたとされる伝説がある。実際に信繁と秀頼のものとされる墓は鹿児島にあり、信繁に関しては全てが伝説絡みではないものの全国各地に墓の存在が確認されている。恐らく判官贔屓の性から生まれた伝説であり、史実として裏付けるものは現時点で存在していない。

  • 一方では家康もこの戦いで死んでいたとされる伝説があり、実際に大阪・堺の南宋寺には家康のものとされる墓と徳川将軍が墓参りに来たという記録が存在する。しかし家康にとどめを刺したのが前日の道明寺の戦いで討死した後藤又兵衛だったり他にも色々と矛盾のある点がありこれもまた信憑性は薄い。

関連タグ編集

戦国時代の合戦 大坂の陣 真田信繁 徳川家康 毛利勝永 豊臣秀頼 大阪城

関連記事

親記事

大坂の陣 おおさかのじん

兄弟記事

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました