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前田利常

まえだとしつね

前田利常(1594~1658)とは、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。加賀藩第二代藩主。
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概要編集

前田利家の四男であり、加賀前田家三代目。母は側室・寿福院


出生当時すでに56歳の高齢であった実父に代わり、齢の離れた異母姉夫婦や異母兄・前田利長に養育され、後に利長から家督を継ぎ加賀藩二代藩主となる。


生涯編集

文禄2年(1594年)に誕生。

豊臣秀吉の起こした文禄の役において、肥前名護屋城に布陣した利家が、侍女であった寿福院に手をつけたことで生まれたという。


幼少時代は利家の長女・幸姫の夫である前田長種のもとで育てられ、実父である利家と対面したのは利家が没する前年(慶長3年(1598年))で、わずかな対面ながら利家は利常の事を可愛がり、大小二刀を与えたという。


慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦い直前に起こった前田利長(東軍)と丹羽長重西軍)による浅井畷の戦いの後、西軍敗北のため長重は東軍との講和を望み、利常は人質として小松城に送られる。同年、跡継ぎのいなかった兄・利長の養子となり名を利光(としみつ)とし、徳川秀忠の娘・珠姫を妻に迎え、江戸幕府を開いた徳川家との関係を強めた。

(当時・利光6歳、珠姫3歳である)


慶長10年(1605年)6月、利長は隠居し、利光が家督を継いで第二代藩主となる。

元和9年(1623年)、秀忠の嫡男で利常の義弟でもある徳川家光が将軍となり、利光は自身の諱が将軍の偏諱でもある「光」の字を下に置いており無礼であると考え、寛永6年(1629年)に利光から利常と改める。


以降も、徳川家から何かと警戒されることが多かったもののそれらを巧みに躱し、同時に「十村制」や「改作法」など農政事業の改革に努めるなど治政における才覚を発揮し、「政治は一加賀、二土佐」と讃えられるほどの盤石の態勢を築いた。京風文化にも強い関心を持ち、京都や江戸から優れた一流の名工たちを高禄で召し抱え、藩内の美術工芸の振興に努めたという。


万治元年(1658年)10月12日に死去。享年66。


逸話編集

立派な体格の持ち主であり、また傾奇者の気質も持ち合わせていたなど、若き日の実父・前田利家に共通する特徴があったとされ、その点が数多くいる利家の子供たちから利長の後継に選ばれる決め手となったという。家康は利常にかつてライバルだった利家を映し見て、後世代に警戒を呼び掛けたともいわれる。


ただし一軍を担う武将としての評価は決して高くはなく、大坂冬の陣では真田信繁が陣取る真田丸を圧倒的な兵数で包囲するも、徳川家と姻戚関係にある焦りから不用意に突撃してしまい、他の軍を巻き込んで多くの死傷者を出してしまった。


前述通り、藩主時代は幕府から常々警戒されており、それを避けるために敢えて「うつけ」を演じたともいわれる。

  • わざと鼻毛を伸ばしており、それをみっともなく思った家臣から手鏡を渡されるも「これは加賀藩の3国を守る鼻毛じゃぞ?」と窘めた。
  • 病床に伏し、しばらく江戸城出仕を控えていたことを酒井忠勝から皮肉をいわれた際「ここが痒くて仕方がなかった故」と満座の殿中で陰嚢を晒して弁解した。

…など、父や義理の叔父に負けずとも劣らぬ破天荒な逸話が数多く残っている。


小松城に人質として送られた際、城主である丹羽長重が自ら梨を剝き与えてくれたことがあり、利常はこの出来事が非常に印象に残ったらしく、晩年まで梨を食べる度にこの思い出話を周囲に語ったという。


その他、衆道が一般的だった当時としても大の美少年好きだったらしく、後世で「戦国三大美少年」の一角とされる浅香庄次郎を臣下に招いたともいわれている。


関連タグ編集

戦国時代 江戸時代 武将 大名 傾奇者

前田利家 寿福院 前田利長

前田光高(長男・三代藩主)

前田藤四郎:所持刀の一つ。

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