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真田信繁

さなだのぶしげ

真田幸村の元となった歴史上の人物。真田昌幸の次男。通称は左衛門佐、輩行名は源二郎(源次郎)。
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この項目では史実における「真田信繁」について扱うものとし、講談等、各種創作作品で有名になった「真田幸村」については当該項目参照。

また、この項目では「講談で描かれた事象のうち、史実のように知られる事象」と「実際の史実における事象」との違いを比較する場合のみ幸村を扱うものとする。


概要編集

  • 生誕:永禄10年(1567年)

※一説では永禄13年2月2日(1570年3月8日)とも言われている。元亀3年(1572年)説もある。

  • 死没:慶長20年5月7日(1615年6月3日)

※一説では寛永18年(1641年)とも言われている。


一般的には「真田幸村」の名前で知られるが、存命当時の資料でこの名前は見当たらず、後世つけられたものとされる。


人物編集

真田幸村


真田昌幸の次男として、1567年に生まれる、兄は信之

真田家は当時武田信玄の配下であり、信繁の名は信玄の亡き弟「武田信繁」にあやかって付けられたとされている。


1582年に武田家が滅亡して以降、真田家は様々な勢力との同盟締結や裏切りを繰り返す事になり、当主である昌幸の息子であった信繁は、しばらく人質として各地を転々とすることになる。


まず、武田を滅ぼした織田信長本能寺の変に倒れた後は、関東担当になっていた滝川一益が撤退する時に祖母・恭雲院と共に人質に差し出された。しかし、美濃への退路に位置していた木曾義昌の妨害に遭い、一益は人質を義昌に引き渡すことで通過を許されている。

真田昌幸、義昌がいずれも徳川家康に服属したことで、信繁は解放されて家に戻った(恭雲院は家康の人質となるが、のちに解放される)。


その後、1585年(天正13年)に昌幸が上杉景勝に二度目の服属をした時にまた人質に差し出された(このあたりの経過はややこしいので、天正壬午の乱を参照)。この時、景勝から昌幸に安堵された所領とは別に、信繁にも1000貫文の所領が与えられ、単なる人質ではない扱いを受けた。この時、屋代秀正(真田と入れ違いに徳川に寝返ったため、秀正の旧領が昌幸・信繁父子に与えられた)旧臣に書いた本領安堵状が残っているが、署名はこの時まで幼名の「弁」になっている。そのため、通説より年齢が若いという説の傍証に挙げられている。

昌幸が羽柴(豊臣)秀吉に服属すると、今度は上洛してその人質となったが、豊臣家では秀吉の馬廻り衆に取り立てられ、父・昌幸とは別に、1万9千石を領した。


1590年にて、信幸は沼田城を後北条氏へ引き渡したが、北条氏直が裁定に逆らって名胡桃城を攻めたことで、12月に小田原征伐が号令される。その際に起きた戦いの一つであり、石田三成の指揮する忍城攻めにて信繁はようやく初陣を果たす事になるのだが、この時の年齢は23歳と、かなりの高齢での初陣であった(戦国武将が初陣を飾る平均年齢は15歳くらいである)。

1594年(文禄3年)11月、従五位下左衛門佐に叙任されている。この間、大谷吉継の娘を妻としており、これが関ヶ原の戦いでの伏線ともなっている(兄・信之の妻は本多忠勝の娘小松姫)。


1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いでは、父・昌幸と共に西軍につき、徳川秀忠の軍を上田城にて釘付けにして関ヶ原に間に合わせなかったという功績を建てるが、肝心の西軍が徳川家康に敗れた為、昌幸が二度に渡る裏切りを行った事実もあって、斬首刑を言い渡される形で処刑されそうになった。しかし東軍についた兄・信之の助命嘆願もあり、高野山の九度山に配流となる。


それから約10年後となる1611年(慶長16年)、父・昌幸が配流先の九度山で死去。信繁は出家し、好白と号した。信繁は期待していた赦免も受けられず、また昌幸に付き従っていた家臣の大半に暇を出していた。姉・村松殿の夫である小山田茂誠への手紙で、「去年より俄ニとしより」「は(歯)なともぬけ申候、ひけ(髭)なともくろきハあまり無之候」と老いを嘆いたのはこの頃である。

1614年(慶長19年)になると、大坂方と徳川方の緊張が高まり、一触即発の雰囲気となる。そんな中、大坂方からの誘いを受けて大坂城へ入城することになる。(→大坂の陣


大坂の陣では、冬の陣で構築した「真田丸」攻防戦で徳川勢を退け、初めて名を挙げた。「真田丸」は徳川方に強い印象を与えたようで、戦後、徳川方によって破却されたあとも、しばらく「真田丸」は地名として残った。


冬の陣の講和後、徳川方は最終通告として信繁を始めとする牢人衆の退去を迫った。これ以上の戦を望まなかった豊臣秀頼は「退去やむなし」という姿勢であったのだが、牢人衆は徹底抗戦派、中間派、退去容認派に分かれ、退去容認派の殆どは、大阪城から去ってしまう事になり、

信繁は中間派で、徳川との再戦は望まないが、正式に豊臣に召し抱えて欲しいという立場であった。しかしそれは叶うことなく、徳川との再戦になった。


1615年(慶長20年)の夏の陣では、旧暦5月6日、道明寺の戦いにおいて、霧の為に突出してしまった後藤又兵衛勢が壊滅。更に諸隊も霧でバラバラとなり戦場に到着した為、東軍によって各個撃破され薄田兼相も戦死するなか、漸く毛利勝永等と共に戦場に到着し、敗残兵を収容して、勝ち誇る伊達政宗勢と激突。これを押し返し、崩壊しかけていた戦線を安定させた。

しかし、八尾・若江で西軍は敗れ、木村重成も討死したとの報が入り、包囲される危険が生じた為に大阪方は撤退する事となり、信繁はその殿を務め、無事に大阪方を後退させた。

この折に追撃をしてこない関東勢に「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」と啖呵を切って悠々と戦場を去ったと言われる。

翌日の7日、信繁は約3500名の兵と寄騎勢を率いて、自軍の4倍以上の約1万5千名からなる松平忠直率いる越前勢と激突。忠直は前日の戦で積極的に動こうとしなかった事で家康の叱責を受けており、其の恥辱を濯ぐべく後世に「たんだかかれの越前兵」と言われた程に戦意高く戦いに臨んでおり、この越前勢との激闘で、突破した折には真田勢は数百にまでなっていたものの、更に徳川家康の本陣に三度突撃を敢行し、一時は家康自身も逃走させるまでに追い込んだが、巻き返されて失敗した。

最期は、四天王寺近くの安居神社(大阪市天王寺区)の木にもたれて休んでいた所を忠直の鉄砲組頭である西尾宗次に自ら討たれる形で死亡。


死後編集

●信繁の子のうち三女の阿梅は伊達政宗の重臣・片倉景綱の嫡子・重長に保護された。彼女は重長正室の死後、継室となり重長を支え重長の死後も養子の景長(重長の外孫)と共に伊達騒動(寛文事件)に揺れた伊達家の存続に奔走し景長の死後も仙台藩5代藩主・伊達吉村の生母となる景長の娘を育てた。

次男・大八は片倉家臣となり片倉守信を称した。その存在は幕りされてきたが、後に真田姓を公式に名乗ることを許され、真田昌幸や信繁の血統を現在まで守っている(なお信之の直系の血筋は江戸時代中期に途絶えているがこちらも現在まで家名は続いている)。

他に三男・三好幸信(母親は豊臣秀次の娘(大河ドラマ『真田丸』における「たか」)で、出生は信繁の死の2ヶ月後)は出羽亀田藩主・岩城宣隆(佐竹義重の三男で義宣の弟)の元で仕えるなど、いずれも賊軍の将の子としては破格の待遇を各所で受けることになる。

しかし、信繁の大坂の陣での活躍も、早い時期から伝えられていた。信之の嫡流が支配した松代藩では、『御当家御武功之記』『真武内伝』『滋野世記』『真田家御事蹟稿(これは藩の公式)』などさまざまな創業史がまとめられたが、信繁は歴代当主に次ぐ扱いで、その活躍が書かれている。


●信繁を討ち取る功績をあげた西尾宗次は家康・秀忠より褒美を受け、忠直からも刀などを授かったうえ、700石から1800石に加増された。どうやら本人は信繁と気付かず、戦って槍で討ち取ったようなのだが、同時代には細川忠興に「手傷を負って倒れているのを討ち取っただけで手柄とも言えぬ」ような知ったかのような酷評を受け、後世の軍記物で信繁が「手柄にせよ」と粛々と首を差し出したのに、戦ってこれを討ったと証言して家康に「お前如きを信繁が相手にするか!」と叱責された話が伝わり、挙句は池波正太郎の「真田太平記」にもそのエピソードが使われるなど伝説的英雄を殺した悪役となってしまっている。

宗次は国に帰って孝顕寺に首塚を造って信繁を弔ったが、一説では埋められたのは鎧袖のみで、首は秘密の場所に埋められたという。

評価編集

●後世の創作作品の影響から、戦功が過剰なまでに賞賛される事が多いが、大坂の陣以前の真田氏による戦い(上田城での2度に渡る徳川軍の撃退など)の殆どは父・昌幸の主導によるもので、信繁が活躍したとする文献はほとんど存在しない。よって、当時は「真田」と言えば昌幸もしくは信之を指すのが常識(第一次上田合戦が初陣であると言う説もあるが、当時の信繁は越後の上杉氏の元で人質になっていた為、有識者の間では有り得ないとされている)となっている。

創作で、幸村入城の知らせを聞いた家康が「親の方か、子の方か」と問いただし、子(幸村)の方だと聞き安堵した(初出は『仰応貴録』)というのはこれが元になっている。


●信繁への評価のほとんどは、大坂の陣によるものである。

細川忠興は、その戦死のありさまを「さなた(真田)・後藤又兵衛手から(手柄)共、古今無之次第ニ候」と評し、島津忠恒は次のように述べた。「五月七日に、御所様(家康)の御陣へ、真田左衛門仕かかり候て、御陣衆追いちらし、討ち捕り申し候。御陣衆、三里ほどずつ逃げ候衆は、皆みな生き残られ候。三度目に真田も討死にて候。真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由。惣別これのみ申す事に候。」

「真田日本一の兵」として有名な話だが、歴史学者の丸島和洋によると、「惣別これのみ申す事に候」は「みんなこのことばかり言っている」という意味で、参陣した諸大名の評判を聞き書きしたものだという(忠恒自身は大坂の陣では戦っていない)。

家康旗本の大久保忠教も、『三河物語』で、御旗(馬印)が倒されたのは三方原以来と述べており、信繁の突撃の激しさを物語っている。


●徳川に敵対したにもかかわらず幕府側は、江戸城内において真田の名将ぶりを褒め称えることや流布を敢えて禁ずることはなかった。これに関しては、「その忠勇に敵方も武士として尊意を示した」「主君に最後まで忠義を尽くすという筋立てが幕府に容認された」とされる。

その一方で、「二代将軍となった秀忠の関ヶ原での遅参を誤魔化すため、真田親子が名将の方が都合が良かった」「大坂の陣でやや不甲斐なかった徳川勢を遠回しに擁護するため」といった見方も存在する。

しかし、判官贔屓と言う形で信繁の名声が広まった結果、他の牢人衆、たとえば毛利勝永(毛利吉政)の功績が霞むようにもなってしまった。

また、大阪城で守りが手薄だった南方面に築かれた真田丸を考案したのは信繁ではなく、亡き父・昌幸であったという説の方が強い上に、真田丸の攻防戦となる大坂・冬の陣では、長宗我部盛親らも守りに参加していたとされ、中には真田丸の守将は豊臣直参の者で、信繁達はその配下として立場上は守備していたという説もある。そもそも最初は真田丸という名前ですら無かったのだが、徳川方によって「真田丸」と呼ばれるようになり、それが定着してしまっている。


●世間では信繁が大坂牢人五人衆のリーダー格であるかの様に扱われる事も多いが、それに関しては、実績はあるが忠誠心も定かでない牢人衆の中では、改易されるまではこの中では最年少ながら父親の代から豊臣家の譜代であった勝永が豊臣家からは信頼され、実際のリーダー格は勝永の方であったとされており、これも、父・昌幸の存在が大きく影響しているのだと思われる。

序列に関しても、信繁が3位であるのに対し勝永は2位と信繁より上で、1位は盛親、4位は又兵衛、5位は明石全登となっている。五人衆が三人衆であった時は最下位となっていた。

更に「牢人衆の代表であった信繁は、自らの意見や作戦について、大阪城の人間達からは聞き入れてもらえなかった」と擁護される事も多いが、それは信繁自身の大阪城での行動や浪人時代の境遇の差にも問題があったからであある。

当時の信繁はもはや勝敗は度外視して、ただ真田の武名を後世に残す事しか考えていなかったのか、真田衆の内輪のみとしか関わりを持とうとせず、むしろ真田衆以外の人間に対しては排他的とも言える態度しかとらなかったとされており、敵側となる徳川方に甥がいる事も重なって、豊臣家の家臣達や他の牢人達からは余計に徳川との内通を疑われてしまう事になっている。

加えて、本来なら関ヶ原の戦いでの罪で処刑を言い渡されてもおかしくなかった身でありながら、兄の信之が徳川の家臣であったと言うだけで、反逆を起こした敗残兵としては異例とも言える好待遇を受けていた事も、他の牢人達からの印象はお世辞にも良くなかったとされている(他の牢人達殆どが、逆賊として追われ続け逃げ隠れする日々を送っていたのに対し、信繁・昌幸の親子は信之の嘆願で命を救われただけでなく、蟄居の身とはいえ昌幸・信繁の屋敷が別々に造営され、近くには家臣達の屋敷まで建てられており、更に信之から仕送りを受ける事も認められるだけでなく、信繁個人に至っては妻や侍女の同行まで許されて、その為に家康の采配で蟄居先が女人禁制の高野山から九度山へとわざわざ変更される等、当時の反逆者への処遇としては「贅沢」とさえ言え、真田大助の誕生にも繋がっている)。

また、信繁は冬の陣の開戦前にて又兵衛と諍いまで起こしている。信繁が真田丸を築こうとした場所は、実は元々又兵衛が馬出となる「後藤丸」を築こうと資材を搬入していたのだが、亡き父に託された真田丸をどうしても築きたかった信繁は、又兵衛の用意していた資材を勝手に撤去させてしまい、真田丸の築城に着手してしまう。当然、これに激怒した又兵衛は、同じ牢人である薄田兼相に宥められても怒りが収まらず、遂には賛同する牢人達を率いて信繁の命を狙った内乱が起こる寸前にまで至ったが、大野治長に頼まれた全登の仲裁によって、又兵衛は「馬出を信繁に譲る代わりに軍議に参加させる事」を要求。この結果、元々盛親、勝永、信繁の三人であった牢人衆は、又兵衛、全登も加えた五人とならざるを得なかったとされている。

また道明寺の戦いで八尾・若江の戦いの敗北で包囲される危険が生じた大阪方の中で、殿を誰が務めるかで、大阪方諸将が名乗り出るなか信繁が強硬に自身が殿を務めると譲らず、勝永が諸将を宥めて信繁を殿とさせたが、信繁がその折に「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」と見得を切って帰還したことも「つまりは俺達も男じゃないって事か」と大阪方諸将の反発を受け、勝永を困らせたという。

中間管理職的な役目を担って自分より経験も実績もある者も多い牢人側と大坂城側の執り成しせねばならなかった勝永や、少しでも牢人衆達の意を組んで豊臣家の中心人物である秀頼や淀殿を説得しなければならなかった治長は、信繁の周りを省みない行動や配慮の足りなさによって、非常に迷惑を被っていたとされ、特に勝永は頭痛や腹痛に苛まれていたとされている。

信繁の功名を求めた故の大阪城内での振る舞いは、余計なトラブルをかなり招く事にも繋がっていた。しかし、人の妬み、恨みを買ってまでのこれらの行為により、信繁は真田の武名を後世に轟かせる事に成功したと言えるがこういった点は源義経にも通じる。


●信繁自身は、1672年刊行の軍記物語『難波戦記』などから「真田幸村」の名で知られるようになり、本名で呼ばれることは少なくなった。ついには、信之の子孫までが「大坂入城後に幸村と改名した」と認識するようになった(実際は生前に幸村と名乗ったことは一度もない。死の前日の感状でも、署名は「信繁」である)。そのため、江戸幕府が諸大名家に系図を報告させて作った『寛政重修諸家譜』でも、信繁から幸村に改名したことになっている。


名前の誤記について編集

名前の誤記が定着したのは、この時代にはさほど珍しくはない。真名)を避け、官職・通称や輩行名で呼ぶ習慣があったため、後世になると子孫でさえも本名がどれであったか判らなくなることがあったからである。たとえば信繁の祖父は真田幸隆の名で知られるが、幸綱が正しい。大坂牢人衆の一人である後藤又兵衛の名は、通説では基次だが、書状などから正親が有力視されているなどの例がある。


別名・表記ゆれ編集

真田幸村(講談・その他創作作品における概要はコチラを参照)

左衛門佐(さえもんのすけ / 記事は他の同名人物の説明)…官位

弁丸…幼名


関連タグ編集

日本史 戦国時代 上田城 真田家 真田兄弟

大千鳥十文字槍 泛塵 千子村正:愛刀剣たち


関連人物編集

血縁者・親戚編集

真田昌幸(父) 山手殿(母) 村松殿(姉) 真田信之(兄)

竹林院(妻) 真田大助(子) 真田阿梅(娘)


真田幸隆(祖父) 恭雲院(祖母)

真田信綱(伯父) 真田昌輝(伯父) 真田信尹(叔父)

矢沢頼綱(大叔父) 矢沢頼康(従兄弟違)


大谷吉継(岳父)

小山田茂誠(姉婿/義兄) 小山田之知(甥)

稲姫/小松姫(兄嫁/義姉) 真田信吉(甥) 真田信政(甥)


大坂牢人五人衆編集

長宗我部盛親 後藤又兵衛 毛利勝永 明石全登

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