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伊達騒動

だてそうどう

「伊達騒動」とは江戸時代前期から中期の仙台藩で起きたお家騒動。 江戸三大お家騒動の一つとして後世の歌舞伎や小説の題材となっている。 3つの局面に分かれるが、中でも最終的に江戸幕府大老の邸宅での刃傷沙汰とチャンバラにまで発展した寛文事件が有名。
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説明

黒田騒動(筑前福岡藩)、加賀騒動(加賀藩)、仙石騒動(但馬出石藩)とともに後世、江戸三大お家騒動の一つとして数えられている。

3代目仙台藩主・伊達綱宗の隠居から4代目仙台藩主・伊達綱村の隠居までの期間に起きた3つのお家騒動を指し、特に支藩藩主で分家の伊達宗勝が後見人となっていた時期に発生した寛文事件と呼ばれる騒動が有名で、『伽羅先代萩』などの歌舞伎の演目や『樅ノ木は残った』などの小説の題材となっている。

伊達綱宗隠居事件

初代藩主・伊達政宗が亡くなってから9年後の正保2年(1645年)、2代目藩主・伊達忠宗の次男で嗣子であった伊達光宗が早死し、兄たちが他家へ養子入りしたことなどもあって6男の巳之助が代わって仙台藩の嗣子となり元服して綱宗と名を改めた。そして万治元年(1658年)に父が死ぬと仙台藩3代目藩主に就任した。

ところが、綱宗は放蕩三昧な上、奉行(他藩の家老に相当)であった奥山常辰と茂庭定元が対立する状況で、大叔父の伊達宗勝が仙台藩の姻戚であった柳川藩主立花忠茂(宗茂の養子)、岡山藩主池田光政(輝政の孫)、宮津藩主京極高国(高次の弟高知の孫)と相談のうえで、時の江戸幕府老中首席であった酒井忠清に綱宗と奉行たちを注意してもらうよう提訴する。

しかし綱宗の放蕩三昧は続き、遂に不作法もあって、万治3年(1660年)に立花・池田・京極の親族大名や奥山・伊達宗倫ら仙台藩の一門・重臣らが連名で綱宗の隠居とその息子の亀千代の家督相続の願いが提出され、これが幕府に受理され、綱宗はわずか21歳、治世3年ほどで隠居することになった。

ちなみに、綱宗が後西天皇の母方従兄弟であったことが隠居の一因とする説があったりする。また、伊達騒動を題材にした後世の創作物では綱宗の放蕩三昧の一例として吉原の高尾太夫の身請け話やつるし斬り等が取り上げられるが俗説とされている。

寛文事件

一般的に「伊達騒動」として知られるのは、伊達宗勝と田村宗良による後見が行われた綱村治世初期に発生し、幕府への訴訟と刃傷沙汰に発展した寛文事件といわれる騒動である。

奥山の専横とその失脚事件

綱宗の隠居により、宗倫(式部、忠宗の五男)や宗勝(兵部、政宗の十男)が藩主候補に挙がったものの、万治3年(1660年)にわずか2歳の伊達亀千代改め綱村が仙台藩主に就任した。
しかしながら2歳の幼児に仙台藩を統治できるはずもないために、綱村の伯父・田村宗良(忠宗の三男)と綱村の大叔父の宗勝を仙台藩の表高を変えない内分分知で岩沼藩と一関藩の大名として立藩させた上で綱村を後見、加えて親族大名筆頭である立花忠茂の信任を得た奉行筆頭の奥山常辰が藩政を主導し、宗良と綱勝がそれを追認する体制がとられた。

ところが、奥山は中央集権政策を断行して一門や仙台藩士の反感を買い、更に奥山は大名とはいえ内分分知であった岩沼藩と一関藩を宗家・仙台藩に服属するべきであるとの態度を取り、田村や綱勝とも対立するようになる。

敵を作りすぎた奥山は、自身の領地である柴田郡村田を岩沼藩に提供した代価地として、かつて伊達宗清(政宗の三男)の所領でその死後に藩主直轄の蔵入地になっていた肥沃な黒川郡吉岡を選んだ上に自身の石高を6000石に加増する決定を行った。従来からの不満に加え、これを藩政の私物化と見なした一門家や藩士の怒りが爆発し、小姓頭の里見重勝の糾弾を皮切りに一門の伊達宗重(安芸)らが奥山排斥運動を展開し、更に宗良と宗勝もこの運動に同調した。

最終的に立花忠茂が奥山を庇いきれなくなったために、寛文3年(1663年)に奉行筆頭の奥山は遂に奉行職を辞任することになった。

宗勝一派の専横

さて、奥山が奉行を辞職した前後に、奥山の専横に関して伊達宗重が宗勝に対して苦言を呈し、宗勝も反省の旨を告げていたが、この「反省」が宗勝と彼から奉行以上の権限を与えられた目付による専横という悪い方向に行くことになる。

奥山の失脚後に宗良とともに直接藩政を見ることになった宗勝は自身の集権化のために、本来中堅クラスの役職と家格である目付に藩職筆頭の奉行以上の権限を与え、更に寛文3年(1663年)以降に新たに奉行になっていた原田宗輔は宗勝から低評価を受けており、宗勝を恐れていたためか、宗勝や取り巻きの目付らのおかしな意見に同意して裁決してしまう有様であった。

おまけに、宗良は宗勝にいいように操縦されてしまい、宗勝が原田以外の奉行である古内義如や柴田朝意を奥山一派と見なしたり、奥山失脚後に再任した茂庭を個別に威圧して奉行間の連携を弱体化させ、また度々諫言する里見重勝の跡式を認めずに里見家を断絶させたりしている。また宗勝は若年の綱村の養育にも関与して綱村の見識に影響を与えていたために、藩内では不満が蓄積されていた。

こうした状況下に加え、宗勝自身が親族大名筆頭・立花忠茂の姪を継室に迎えていた上に寛文4年(1664年)に息子の正室に幕府老中筆頭である酒井忠清の養女を迎えたことで宗勝への疑心が仙台藩内が深まる中、寛文6年(1666年)に綱村の毒見役が死亡する事件が起き、更に江戸幕府から国目付が派遣・滞在していた寛文8年(1668年)に宗勝の暗殺計画が発覚して首謀者の伊東重孝が処刑され、一族が連座する事件が発生し、藩政は混沌としていた。

谷地騒動での理不尽と遂にブチ切れた伊達安芸

他方で、寛文年間には共に新田開発が進めていた宗重の涌谷伊達家と宗倫の登米伊達家との間で領地の境界が頻発するようになり、寛文7年(1667年)に発生した登米領の大窪村と涌谷領の二郷村の境界紛争において、宗重と宗倫それぞれの主張が食い違っていた上に、仙台藩が正保国絵図の控えを紛失していたことで決着がつかずにいた。

このために、宗倫の希望もあって寛文9年(1669年)に本藩・仙台藩が裁決することとなり、伊達宗勝・田村宗良の両後見人が立花忠茂と酒井忠清の内諾の下で、野谷地の3分の2を登米領に、3分の1を涌谷領に振り分ける裁定を下した。宗倫・宗重は共に一応の不服を訴えたものの両者とも裁定に従うこととなった。

しかし、同年7月に実地検分に訪れた藩の検分役で宗勝派の目付である今村安長が裁定に反して主張より狭い3分の1であった涌谷領分を5分の1未満に削り、抗議した涌谷家中に対して無礼を働いた。

これにより、以前から宗勝派の専横をよく思っていなかった宗重は、遂にブチ切れて寛文10年(1670年)に宗勝一派のそれまでの不正の数々を幕府に上訴することとなった。

江戸幕府による審問と大老邸での刃傷事件

宗重の上訴を受けて、寛文11年(1671年)1月に江戸幕府は仙台藩奉行・柴田朝意を伊達宗重より先に江戸出府を命じ、老齢の柴田朝意は田村宗良に同じ奉行の古内義如の出府を要請し、許可されて、古内も出府することとなった。

寛文11年3月7日(1671年)に幕府による一回目の審問が幕府老中の一人板倉重矩邸宅において、同じくボ幕府老中・土屋数直列座する中、宗勝、原田、柴田が呼び出されて行われ、原田と柴田の主張食い違いにより、古田も呼び出されることとなった。

更に、寛文11年3月27日(1671年)に第2回の審問が行われるが、場所を当初予定を変更して大老・酒井忠清邸宅で行われ、大老・忠清と当時の老中全員に大目付が列座する中、二回目の審問が行われる。

宗勝一派に不利な採決が濃厚となる中、大老・酒井邸控室において原田宗輔が突如伊達宗重を惨殺し、抜刀のまま今度は大老と老中全員がいる部屋に突入しようとして驚いた柴田朝意や柴田に加勢した蜂屋可広が原田を止めるために斬り合う事態へと発展した。

結局、突然すぎて訳が分からない大老酒井家の家臣に3人まとめて斬られることとなり、原田は即死、柴田は駆けつけた仙台藩医・福井玄孝や家来らに自身を宇和島藩邸に搬出するように促すが、間に合わずにその日のうちに死去、蜂屋も「右肩八寸ばかり切られ、肩すでに離れる」ほどの重傷を負って死去した。

その後、藩主伊達綱村は幼少のためお構い無しとされる一方、実質的な仙台藩の責任者である伊達宗勝と田村宗良の責任が問われて、宗勝の一関藩は改易の上で宗勝とその一家は永預、田村宗良は寛文12年(1672年)まで閉門処分となる。
また宗勝派も失脚し、大老邸での刃傷沙汰や一門家の一人である宗重の殺害(更に江戸幕府の大老や老中の殺害未遂)をやらかした原田宗輔の遺族は連座することとなり、男子は乳幼児に至るまで切腹や斬首、宗輔の母や妻女は他家預かりとなって原田家は断絶することとなる。

一方で、この事件で涌谷伊達家の江戸での評判が上がった。

刃傷事件の顛末の伝記や史料

ちなみに、刃傷事件の顛末の記録として、当事者のものとしては古内義如の書状や酒井家家臣の記録が、伝聞としては涌谷伊達家家臣の川口が事件直後に古内に聞いた話や末期の柴田からその家臣や藩医が聞いた話、同じく虫の息の蜂屋からその息子や娘婿が聞いた話などがあり、公式記録としては『徳川実紀』や『寛文年録』、仙台藩の「治家記録」などがある他、後世の実録物を加えるとその量は多い。また歌舞伎『伽羅先代萩』『伊達競阿国戯場』や、山本周五郎の小説『樅ノ木は残った』などの題材となった。

大老邸で斬り合った三人

なお、大老・酒井邸宅で斬り合った原田、柴田、蜂屋だが、三人とも本人や先祖が結構な経歴の持ち主である。

原田宗輔は母の津多が公式は鬼庭綱元の娘ながら伊達政宗のご落胤とされる人物で、津多の母で宗輔の母方祖母は元々は豊臣秀吉の側室であった。

一方の柴田朝意は、実は長宗我部元親の外孫で大坂の陣で豊臣方について戦死した佐竹親直の次男の佐竹輪丸で、家族と共に大坂城に入った末に徳川方についた仙台藩の捕虜となるも助命されて仙台藩の小姓、その後柴田家の婿養子となって仙台藩奉行(家老)にまでなった人物であった。

また蜂屋可広は、徳川十六神将の一人とされる蜂屋貞次(半之丞)の女系子孫であり、可広の父は元江戸幕府旗本だったが、江戸から逐電して伊達成実の下に転がり込んだ後に仙台藩士となっており、大坂の陣では「鳥居孫助」と称して徳川方についた仙台藩士として参陣していた。

伊達綱村隠居事件

寛文事件以降、綱村は13歳より親政を執ることとなった。

百防風林を設け、運河を開発するなどの治績で大きな成果を収め、儒学を学び、多数の学者を招聘して藩史の編纂に尽力し、寺院の建立、神社の造営に尽力したが、一方でこれらの事業や藩札発行によるインフレで藩財政が悪化する。また、綱村は自身の側近である中小級の家臣を奉行などの重職に登用するようになる。

寺社の建立造営や中小級の家臣登用自体は徳川綱吉治世期の江戸幕府や諸藩では普及しつつあった風潮となっており、仙台藩自体が寛文年間の時点で6人定員の奉行職を3人のみの定員割れ状態で藩政運営していたレベルの人材不足を経験していたが、寛文事件の発端の一つとなった谷地騒動での宗勝派目付による専横レベルの実地検分などで実害を経験した伊達一門と旧臣は綱村の側近登用に不快感を示した。

元禄6年(1693年)に諫言書を提出したが、綱村が聞き入れなかったことと、元禄8年(1695年)に綱村が伊達吉村を養嗣子として後継者を確保すると、元禄10年(1697年)に伊達一門家7名と奉行5人が幕府に綱村の隠居願いを提出しようとして伊達家の親族の稲葉正住がこれを差し止める事件が起こる。

その後も伊達一門家らによる諫言書提出が続き、仙台藩のゴタゴタが将軍・綱吉の耳にも入ることになり、当時老中に昇進していた稲葉正住が仙台藩の改易を危惧して綱村に隠居を勧告、これを受けて元禄16年(1703年)に綱村が隠居。一応仙台騒動は終息した。

もっともその後は、綱村死後の享保10年(1725年)に計画された領内総検地(享保大改)が伊達一門家による意見書の提出などで中止されるなど、仙台藩において伊達一門家は無視できない存在であり続けた。


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