概要
仮名は藤五郎。「奥州の独眼竜」こと伊達政宗の家臣で、家中随一の剛の者として知られる。
片倉景綱(小十郎)と並び「伊達の双璧」と称された腹心でもある(これに鬼庭綱元を加え「伊達三傑」とも称される)。
なお、「成実」の読みは「なるみ」ではないのであしからず。
生涯
永禄11年(1568年)、伊達実元(政宗の大叔父)の嫡男として大森城(福島市)に生まれる。
幼名は時宗丸。母・鏡清院は政宗の父・伊達輝宗の妹であり、政宗とは従兄弟の関係にある。
伊達家中の中でも、武勇の誉れ高く、人取橋の戦いでは奮戦して政宗を逃がし、郡山合戦では寡兵で蘆名義広の攻勢をしのいだ上に大内定綱を調略して帰参させ、摺上原の戦いでは、敵の側面を強襲して味方の劣勢を覆すなど武功を上げている。
しかし、政宗が小田原征伐に参陣した際には、黒川城に残って留守居役をしたり、政宗の一揆煽動が豊臣秀吉に露見して上洛を命じられると、蒲生氏郷への人質として名生城に入るなど、武勇とは程遠い役目が続いたある日、当然伊達家から謎の出奔をしてしまった。
この点については資料が乏しく、未だに具体的な理由と出奔後の足取りが掴めていない。
結局、関ヶ原の戦いが起きた同年に景綱や留守政景らの説得によって帰参し、白石城攻めにも石川昭光の軍に属して参加したといわれる。
その後、伊達家中にて数々の大役を担った後に、正保3年(1646年)6月4日に死去。享年79。実子は早世したため、政宗の9男宗実(安房守)が養子として家督を継いだ。
子孫は仙台藩内では分家の重鎮となる。下って明治維新後は北海道の開拓などで地名に「伊達」を残す。タレントのサンドウィッチマン伊達みきおの祖先である大條家16代当主道治の母親は安房守の女系子孫である。
人物
- 片倉景綱が「智の片倉景綱」と称され、知略面で伊達家をサポートしたのに対して、成実は「武の伊達成実」と称されて武略面で伊達家をサポートした。
- 兜にムカデをあしらった前立をつけていた事で有名。「決して後ろには退かない」という決意の表れとして、後退しないムカデの習性にあやかったという事だが、実はムカデではなく毛虫だったらしい(理由は同じ「後退しない」)。ムカデ説が定着したのはNHK大河ドラマ『独眼竜政宗』の影響との事。
創作物における伊達成実
大体の作品で武勇に優れた人物をされているが、後年の武功に恵まれなかったことや出奔による影響か、景綱に比べて知名度が低い感は否めない。
『独眼竜政宗』
(演:三浦友和)
『殿といっしょ』
逆立った髪と大月代が特徴的な荒武者。「武の藤吾」の異名を冠しやや短気ではあるが頭の回転も遅くない名将。クールな景綱とはよく言い争いになるものの、眼帯バカの主君に突っ込みを入れる時は絶妙のコンビネーションを見せる。
『戦国コレクション』
『戦国BASARA』
大薙刀を振るう武将として背景に登場しているが、顔はマスクで隠れている。政宗同様にノリがいい。PC昇格予定は不明。アニバサには未登場。
毛虫の前立てのイメージを拡大解釈し、何事にも毛虫やムカデを持ち出す虫オタクにされている。武に優れるがかなりガサツで短気。この辺は『軍師黒田官兵衛伝』の母里太兵衛に似ている。
『独眼龍改』
ムキムキの腹筋がトレードマークの黒髪のイケメン。従弟&幼馴染なだけあって、政宗を呼び捨てにできる。丸太を一太刀でぶった切るほどの剣豪であり、脇差も加えた二刀流も使いこなす。態度は大きく面の皮も厚いが、その言動に反し常識人であり冷静な一面も持つ。
芦名から差し向けられた双子の忍者霞・疾風により(政宗諸共)命を狙われていたが、政宗を守るべく自身の頸を差しだそうとする器を見せ、敬服した2人は黒脛巾組に入り、成実の近習となった。