佐竹義重の次男。会津蘆名家に養子入りするも伊達政宗との摺上原の戦いで惨敗し蘆名家は滅亡。のち出羽角館蘆名氏の初代当主となる。
プロフィール
- 生没年:1575年〜1631年
- 幼名:喝食丸
- 通称:平四郎
- 官途名:主計頭
- 諱:義広→盛重→義勝
概要
佐竹義重の次男。母は伊達晴宗の五女・宝寿院。同母兄に佐竹義宣、同母弟に岩城貞隆がいる。
父・義重は北条氏政や小田氏治らと対立し関東で鎬を削る一方、彼らと結び南下して来た政宗とも敵対し、蘆名氏・相馬氏・二階堂氏といった勢力と結びついて、政宗の南下を抑えていた。
そのよう中、蘆名家では盛隆に亀王丸と若年の当主が相次いで亡くなると、佐竹と伊達どちらから養子を迎えるかで家中が対立した。
当時の義広は陸奥小峰城主・白河義親の養子として陸奥白河家の当主になっていた。金上盛備ら佐竹派はその義広を支持し、蘆名一門の猪苗代盛国ら伊逹派は伊達小次郎を支持していた。最終的には盛備ら佐竹派が策謀により伊達派の重臣を失脚させ、義広は蘆名家に養子入りした。なお、陸奥白河家は義親が当主に再任している。
しかし、幼い義広が上手く家中をまとめられるはずがなく、しかも義広と共ににやって来た大縄義辰らが伊達派の家臣達を失脚させた為、家中はさらに不安定な状態になる。その隙を政宗に浸かれ、盛国が調略で寝返ってしまう。さらに1589年の摺上原の戦いで大敗した上に執政の盛備らの重臣を失い、義広は常陸に逃亡して蘆名氏は滅亡した。
その後、義広は豊臣秀吉から龍ヶ崎のち江戸崎に所領を与えられ佐竹家の与力大名として蘆名家は存続した。この時に諱を盛重と改めている。しかし、佐竹家は当主の義宣が関ヶ原の戦いでの西軍寄りの動きをしていたことから盛重は兄に連座して所領を徳川家康に没収された。のち義宣は出羽国久保田(秋田)に転封されたが盛重も義宣に同行して出羽に移りかつて戸沢盛安が本拠にしていた角館を与えられ諱も義勝に変えた。1631年没、享年57歳。
義勝の後、角館蘆名氏は義勝の遺腹の子である盛俊が継いだが20歳で早逝。その後は盛俊の子の千鶴丸が継ぐも1歳で没し断絶した。
なお、地元の角館では治水事業や防火対策を行った名君として知られている。