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金上盛備

かながみもりはる

金上盛備とは、蘆名家5代に使えた戦国武将の1人。優れた政治手腕から『蘆名の執権』と称された。 1527~1589

概要編集

金上盛備は1527年に蘆名家の重臣として生まれる。内政・外交・軍事のどの面に置いても優れており、当主の名代として活躍することも多かった。


1580年に蘆名盛氏が亡くなると跡を継いだ盛隆の官位任官の為に盛備が上洛し、織田信長に謁見した際には、信長から盛備のことを直接評価され、信長は盛備に盛隆より高い官位を正式に与えている。その待遇は、信長が亡き後の豊臣秀吉ですら盛備のことを無下には扱わなかったという。


しかし、蘆名家では若くして当主が相次いで亡くなり、盛備らは佐竹家から養子を迎えることを主張したが、猪苗代盛国ら1部の重臣は伊達家から養子を迎えるべきと対立し、策謀より伊達派の重臣を失脚させて佐竹義広を当主とするも家中を上手くまとめることは出来なかった。


伊達政宗は南下を続け、盛国ら伊達派の蘆名家重臣に接触し、調略を仕掛け蘆名家を追い詰めていく。そして、1589年摺上原の戦いにて激突し、蘆名軍は前半は善戦こそするも伊達軍に敗れて、盛備も討死した。享年63。


創作編集

政宗さまと景綱くん

蘆名家重臣筆頭。自ら「蘆名の守護神」と称し、蘆名家家臣団からも知勇兼備の名将にして最高権力者と謳われ,景綱をして蘆名家最強の男と言わしめる程の実力者。檜原の戦いでは自らは出なかったものの的確な戦略を指示して伊達家の猛将・原田宗時率いる軍勢を撃破した。


パラメータでは、責任感10とあり、蘆名家存続の為粉骨砕身し、20代目当主就任問題では伊達家出身である彦姫(輝宗の妹で政宗小次郎成実の叔母)の立場を危うくするとしつつも、蘆名家の未来を考え、伊達小次郎擁立派の猪苗代盛国と舌戦を繰り広げてこれを下し、佐竹義広擁立で家中をまとめ上げるが、佐竹家から義広に随行した家臣や伊達派の家臣を完全に抑えられず、板挟みの日々を送る


良くも悪くも真面目すぎる性格で、ただでさえ子供をあやすのは下手な上に、戦勝報告をしようとして寝かしつけられた19代目当主・亀若丸を起こしてしまったり(当然ギャン泣き)、今生の別れになるかもしれないから夫婦2人でいたいところを中々離れようとしなかったり、摺上原の合戦に臨む際には逝去した彦姫の爪楊枝を御守りとして懐に入れていたり(本人曰く未使用)と、義広から「文武以外はダメダメ系か?」と突っ込まれる程である。


また舌戦の際には相手を完膚なきまで叩きのめすところがあり、結果として大内定綱や猪苗代盛国が伊達家に鞍替えする原因の1つになってしまっている。


しかし蘆名家への忠誠心は本物で、滅びゆく蘆名家と共に死ぬ覚悟を決めている。摺上原の戦いでは、敗色濃厚と判断し、義広を説得して退却させ、自らは殿として伊達軍の兵を次々と叩き潰したのち景綱と一騎打ちを敢行。激戦を繰り広げる。


そして景綱に対しては「名のある武将と戦って死ねる」ことに感謝し、彦姫に対して蘆名を護れなかったことを心中で侘びながら斃れた。しかし天からの彦姫は責めることはなく、よくやってくれてありがとうと感謝し、彼の手を取っていた。

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