概要
伊達家に仕え江戸時代には仙台藩の白石城主を務めた片倉氏当主代々の通称。
伊達輝宗・伊達政宗の二代に渡り仕えた初代小十郎の片倉景綱が特に著名。単に片倉小十郎と言えば景綱を指すことが多い。
景綱の子の二代・重長は大坂の陣、景綱の曾外孫に当たる三代・景長は伊達騒動でそれぞれ活躍している。
初代・片倉景綱(1557~1615)
景綱は政宗の近習で、いくさ場では軍師的存在として智才で同家を支えたとされる。「智の片倉景綱」と評され、武勇で知られる「武の伊達成実」と並び「伊達の双璧」と呼ばれており、これに「吏の鬼庭綱元」を加え「伊達三傑」とされることも。
二代目・片倉重長(1585~1659)
景綱の嫡子。幼名は左門。初名は重綱。1615年の大坂夏の陣で後藤又兵衛らを打ち破り「鬼の小十郎」とあだ名された。のち真田信繁(幸村)の遺児たちである守信や阿梅(大助こと幸昌の弟妹)を保護しのちに阿梅を継室としている。
三代目・片倉景長(1630~1681)
重長の外孫。松川松前氏出身。幼名は三之助。父の安広は初代松前藩主・松前慶広の七男だったが伊達政宗に請われ伊達家に仕え重長の娘を娶った。男子のいなかった重長と阿梅の養子となり片倉家を継いだ。伊達騒動(寛文事件)においては主君・伊達綱村を補佐し仙台藩存続に奔走。ちなみに第5代仙台藩主・伊達吉村の外祖父であり、以降の仙台伊達家は吉村の血統が現在も続いている。吉村の女系子孫としては元総理の細川護煕がいる。
小十郎景綱の概要
生涯
弘治3年(1557年)、米沢成島八幡神社の神職・片倉景重の次男として生まれる。両親とは幼いころに死別し、20歳ほど齢の離れた異母姉・片倉喜多に養育され、文武両道として知られる彼女から様々な知識を授かり育った。喜多はとくに兵書を好み、これを講じたことが後に軍師として智謀を振るう景綱に強い影響を与えたとも考えられる。
永禄10年(1567年)、当時の主君である輝宗に長男・政宗が生まれると喜多はの乳母を拝命する。景綱は天正年間初期(1573年~)に起こった伊達領米沢での大火事の際の活躍が認められ、輝宗の小姓となり、後に遠藤基信の推挙により政宗の近侍となる。
以降は政宗率いる伊達家をその智才で支えた。戦場では軍師として部隊長として才を発揮し、政宗の参戦した主要な戦の殆どに出陣し、伊達氏の危機を幾度も救った。政治面では外交の取次を担当した他、豊臣秀吉の小田原征伐の際は豊臣側に付くことを勧め参陣を決定づけさせた。
関ヶ原の後の慶長7年(1602年)、政宗が仙台藩主になると一国一城令が敷かれ、景綱は特例として残された白石城1万3000石の城主を賜る。当時は病(おそらく糖尿病)を患い亘理領内の神宮寺村で療養した後、慶長10年(1605年)に白石へ移った。
慶長19年(1614年)の大坂の陣では病床に臥していたため政宗に従うことができず、嫡子の重綱(後の重長)を参陣させた。
元和元年(1615年)、病のために死去。享年59歳。生前の活躍から人望も篤く、彼を慕った家臣6名が殉死したと言われている。
逸話
前述通り、内政・軍略など伊達家のブレーンとして活躍したとされるが、一説では剣術にも精通した智勇の将であったとされ、幼少の政宗に剣術指南を務めたとも言われる。
また、文化人であり、大変な笛の名手であったともされる。
政宗は幼い頃、疱瘡(天然痘)を患った際出来物をかきむしって毒が右目に入ってしまった。細胞が死滅した右眼球は眼底から垂れ下がり、その様があまりにも不気味であったため、自分の顔を厭った政宗は人嫌いになり、他人を寄せ付けなくなってしまう。守役であった景綱はこの状況を好とせず、政宗とその父・輝宗を説得し眼球除去を行った。
その方法は政宗の体を縛り、麻酔(当時そんなもんは無い)をかけないまま景綱が短刀でえぐるという凄まじいものであった。以後、政宗は出血多量に拠る高熱にうなされ、生死をさまようこととなり、景綱はもしこれで政宗が死んだら、守役一同自害してわびる覚悟であったと言われている。
…………といわれているが、政宗の遺骨鑑定で右目の眼球をえぐり出した痕がないため、(眼球が存在していた痕がある)後生の創作というのが今は一般的である。恐らく政宗の右脇腹にできたできものを切除した話が、後世になって右目をえぐり出したと言う話に変わっていったというのが今の定説である。
また、その忠誠心には凄まじいものがあった。重長が産まれた時、政宗はまだ子どもを授かっていなかったために「主君より先に子を授かってしまうとはなんたる不忠!」と産まれたばかりの子供を殺そうとしたほどだったという(主君の政宗はじめ周りが全力で止めて事無きを得たが)。
ちなみに、この時政宗がしたためた「お前生まれた息子を殺す殺す言ってるみたいだけどやめてあげなさいよ(意訳)」という内容の手紙が現存していたりする。
ちなみにあまり知られていないが、彼も若い頃伊達家を出奔しようとしたことがある。だが、姉・喜多に説得され思いとどまった。伊達成実といい鬼庭綱元といい伊達家は家臣が出奔したくなるほど酷い家だったのだろうか……
死因は糖尿病説が支配的で、美味い物の喰い過ぎで太りすぎてしまったらしい。…まあ、政宗の趣味が料理研究なのだから、さもありなんといったところであろうか。ちなみに政宗も晩年は激太りしたらしい。この側近にしてこの主君と言うべきか。実際、残っている肖像画の景綱は恵体である。
創作での片倉小十郎
単に小十郎と言えば景綱を指す。
個別記事有り
- 『戦国BASARAシリーズ』のキャラクター。→片倉小十郎(戦国BASARA)
- 『戦国無双シリーズ』のキャラクター。→片倉小十郎(戦国無双)
- 『戦国コレクション』のキャラクター。→華麗・片倉小十郎
- 『戦国 A LIVE』のキャラクター。→片倉小十郎(戦国ALIVE)
NHK大河ドラマ
- 樅の木は残った(1970年)
小十郎(景長)を佐竹明夫が演じた。
- 独眼竜政宗(1987年)
小十郎(景綱)は西郷輝彦、小十郎(重綱)は高嶋政宏が演じた。
信長の野望シリーズ
景綱は武将風雲録から登場。
知勇兼備のオールマイティ武将で基本的に若々しいイケメンに描かれる(ただし例外もある)。
重長は覇王伝から登場。やや武に偏り気味の能力値だがこちらも父同様、若々しいイケメンに描かれる。
殿といっしょ
※左から2人目。
CV:小野大輔
破天荒な眼帯オタクである主君・伊達政宗につきあわされ、気苦労の絶えない中間管理職。猛将である成実とは反りが合わず対立することも多いが、政宗の奇行に突っ込む時は息がぴったり。姉・喜多には今なお頭が上がらず、粗相する度にボコられている。
BRAVE10
CV:稲田徹
伊達家筆頭家老。野心という言葉が服を着て歩いているような破天荒すぎる主君にホトホト気苦労が絶えない。隙あらば城を抜け出す政宗をしょっちゅう止めている。
戦国ARMORS
風流を愛する一流の文化人であり、武断派の政宗を知恵で支える懐刀。かなり背が高いため、小柄な(つってもそこまでチビではない)政宗にとってはコンプレックスの対象。政宗のことは「坊ちゃん」と呼んでいる。政宗を撃破した天海の実力を認め、秀吉の真の計略を伝えた。
最終決戦時には天海を豊臣軍から逃がすために増援を送っている。
政宗さまと景綱くん
※画面右側。
かなりのドSであり、主君・政宗を必要以上に厳しく鍛える鬼教官。その性格故に籠城する敵への挑発が一番得意で大好きという困った人物。
文武ともに優れ、飛んできた弓矢を切り払うほどの武人でありながら、若くして伊達家内でもトップレベルの優れた頭脳を有し、常に冷静に政務に携わる傍ら政宗をいじる。しかし主君を思う気持ちは本当であり、愛姫が初対面の政宗を見下していた時には「先祖の虎の名を借りる井の中の蛙」と吐き捨て(政宗をわざと怒らせ二人の仲を取り持っ)た。
政宗と共に城下を警邏していた時に妻・やっち(矢内御前)と出会い結婚したが、政宗より先に子を授かった事を気に病んで殺そうとした…のだが、政宗から「そんなに気にかかってたんならヤるんじゃねェ!!」とボコボコにされ、すんでの所で止められた。
息子(めっちゃ顔がそっくり)が生まれてからは順当に親馬鹿の道を進むが、お馬さんごっこをするとき左から乗ろうとしただけで叱責するなど、ここでも鬼教師ぶりを発揮している。
なお、タイトルに「景綱くん」とあるように、政宗を始めとする伊達家中の人々から「景綱」と呼ばれており(大内定綱や金上盛備からは「片倉」と呼ばれている)、本作品で小十郎と呼ばれる場面は無い。
独眼龍改
(画像右端)
政宗(画像右二番目)の教育係を務める青年。女性的なほどの美貌を持つ優男で、上品な文化人であるが、政宗に対する忠誠心は篤く、非道な手段を用いて政宗の評判を地に落とした佐竹義宣に対しては後の世に鬼と称されるほどブチギレて襲い掛かったほど。槍の使い手であるが、女性に対しては殺さず石突で投げ飛ばして制圧する。
ラヴヘブン
乙女パズルゲームの攻略キャラクターで初期レアリティはR。
異世界の危機を救うため、主人公により召喚された。伊達命。
ねこねこ日本史
CV:三代目マークパンサー
黒茶マダラ模様と三日月型の飾りがトレードマーク。
冷静沈着なツッコミ役で、親子二代で政宗に仕える。
アニメでは最終回の主役を飾り、彼の魂が天に上る所で5年の放送に幕を下ろした。
関連イラスト
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白石城…片倉家代々の居城。戊辰戦争の折には、奥羽越列藩同盟の結成地となった。