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概要編集

戦国時代から江戸時代初期にかけて生きた女性。

(1538年 - 1610年)

父は鬼庭良直鬼庭左月斎)。母は本沢真直の娘・本沢直子

別名は、「喜多子」


1538年に伊達家臣・鬼庭良直の娘(長女)として生まれた。

しかし、母・直子は男児に恵まれず離縁。神職の片倉景重と再婚し、喜多にとっては腹違いのである片倉小十郎(後の片倉景綱)を生むこととなる。

異父弟・景綱同様に聡明な女性に育ち、文武両道でもあり兵書を好んだとされる。

鬼庭良直の剛健さや、母・直子の壮麗さを継いでおり、才気煥発であった。

ちなみに片倉家の旗指物となった「黒釣鐘」は喜多が考案したとされている。


後に伊達政宗乳母となる。

尤も、喜多は生涯未婚だったので母乳など出ない。実際は養育係としての一任である。なんでわざわざそんなもんがと疑問に思った方は少々長くなるのでこちらを見て頂きたい。

喜多は景綱と共に政宗の良き師、良き部下として彼を独眼竜へと育て上げた。そして政宗が結婚し正室愛姫を迎え入れた際には、彼女の侍従となっている。

豊臣秀吉の天下統一後、愛姫が秀吉の人質として送致された際には天下人たる秀吉に謁見し、その才気を褒められ「少納言」と称されたという(まあ、この頃既に50代だったのでスケベな秀吉からも色目は使われなかったようだが)。


しかし、晩年は政宗と仲たがいしたらしく、蟄居を命じられている。

真偽は不明であるが、

  1. 秀吉が、政宗の愛妾に横恋慕し「わしによこせ」と例の如く言い寄ってきた。
  2. 政宗は当然「嫌じゃーい!」と駄々をこねていたが、喜多が忖度して政宗が留守中にその妾の同意を取り、秀吉の元に送ってしまった。
  3. 帰ってきた政宗に事の顛末を説明。政宗ブチ切れ。

といった話が伝わっている。


その後、景綱が白石城主になった折、弟に付き従いそこで余生を過ごした。享年、72歳。大往生である。円同院月隣妙華大姉と号す。


愛姫からは慕われていたようで、死後に伊達忠宗(政宗と愛の子)により愛の従弟・田村宗顕の子である田村定広男猿兄弟が喜多の名目上の継子となり、片倉の分家となったという。


大河ドラマ『独眼竜政宗』に登場し竹下景子が演じたことで全国的な知名度を得た。ちなみに上述の政宗ブチギレ事件で最後は蟄居を食らっている。


創作編集

何分上記の通りの逸話が残っているので、政宗関連の創作においても愛が重い人というイメージが多い。

殿といっしょ編集

景綱と瓜二つの美女にして烈女。景綱の事をややブラコン気味なほどに愛しているが、あまりに愛しすぎて星一徹ばりにスパルタ教育を施してしまう(景綱や政宗が成人しても)。

愛姫との仲は良いものの、彼女の行き過ぎた政宗ラヴには景綱や成実共々引き気味。


政宗さまと景綱くん編集

政宗さまと景綱くん⑩話より(1コマ目右)

ウェーブのかかった紫髪の美女。政宗を気色悪いほど溺愛しており、童貞も奪った。景綱共々政宗を傍で支えている。

独身ネタを口にしたものは命は無い。


実父である左月斎とは当初は不仲(左月の方からは気を使われていた)であったが、左月が天寿を全うする直前に和解することができた。

景綱が自分の息子を手に掛けようとした際には政宗と一緒になって折檻しようとしたが、手に巨大な金棒を持っていた為政宗からも制止されている。


何度、時をくりかえしても本能寺が燃えるんじゃが!?編集

景綱と瓜二つの美女にして烈女ナイスバディであり常に胸元を露出した大胆な服装をしている。小太刀の達人。

お家騒動の件で政宗派のトップであり、実母でありながら政宗を冷遇する義姫に嫌悪感を抱いている。


関連項目編集

戦国時代 東北勢 


鬼庭綱元:異母弟その2

片倉重長:甥


喜多満子烈!!!伊達先パイ):喜多をモデルにしたキャラ。

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