概要
1594年~1661年。
当時、愛姫との間に嫡子(男子)を熱望していた政宗は、子供の名前を男のものしか用意しておらず、生まれた姫に字はそのままに読み方だけ変えて名付けてしまったという。…なにそのDQNネーム。
ちなみに愛姫のネーミングセンスはというと、従兄弟で義兄の田村宗顕の次男に田村男猿(おさる)と命名していたりする。ちなみにこの男猿は成人後、政宗の乳母で片倉景綱の実姉である片倉喜多の名跡を継ぎ、片倉良種と名乗った。また彼は青葉流マタギの祖となる。
五郎八姫は非常に美しく聡明な女性として成長し、政宗に「どうしてこの娘は男として産まれてこなかったんだ……」と嘆かせる程だったとか。
政略結婚であるものの両者の夫婦仲は良好だったが、子供はいなかったとされる。
1616年に夫・忠輝は改易となり、彼女も離縁され伊達家に戻り、以降は晩年まで仙台で暮らした。
ちなみに、同じく愛姫を母とする実弟にして仙台藩二代目藩主の伊達忠宗とは非常に仲が良く、何かあるとお互いを頼りにし合っていたらしい。
キリシタンとしての五郎八姫
実は五郎八姫がキリシタンだったという確かな記録は見つかっていない。しかし様々な史実から五郎八姫がキリスト教に深いかかわりを持っていたのは間違いないと考えられている。
母の愛姫と聚楽第にいた頃、愛姫はキリシタンの細川ガラシャと親交が深かった。また夫の松平忠輝は、離縁後生涯妻帯する事は無かったといわれる(キリスト教では離縁が禁じられるため)。家康に「鬼っ子」と呼ばれ忌み嫌われていた忠輝に、どこか惹かれるものを感じていたのかもしれない。極めつけは仙台市栗生地域の鬼子母神堂には聖母マリア像に似た鬼子母神像があること。鬼子母神は子守りの女神であり、聖母マリアと通ずるところはある。バテレン追放令が厳しい中、隠れキリシタンとして鬼子母神像をかたどったことは充分ありえる。
創作作品での五郎八姫
戦国大戦
伊達家の武将として、ver2.1より加入した。
1590年当時は、まだ彼女は産まれてすらいないのだが、戦国大戦ではよくあることなので、気にしてはいけない(実際彼女のイラストはまだ幼い少女として描かれている)。
父親によく似たのかセリフは勝ち気なものが多い。
また、服装は母親の意匠を受け継いだかのような和ゴスである。
「これが伊達の強さよ! 覚悟しなさい!!」