周辺大名を従属させる
1488年、伊達家13代当主・伊達尚宗の嫡男として生まれる。幼名・次郎。初名は伊達高宗と名乗った。同母弟は留守景宗で、景宗の男系子孫に伊達みきおらがいる。
1514年、父・尚宗の死去にともない家督を相続して第14代当主となる。そして手始めに羽州探題・最上義定を破り、その上に実の妹を送り込んで義定の妻とさせて実質最上家を支配下に収める。
3年後に、足利義稙の上洛祝賀の為として多額の進物を送り、管領・細川高国を通じて一字拝領を願い出て許されて名を稙宗に改めた。それと同時に左京大夫に任官された。
(左京大夫は本来、大崎家が世襲する官位であったが、この官位を獲得した事によって大崎氏に名実共に取って代わった事を示している。)
稙宗は中央との結びつきを家格上昇に利用するとともに、葛西氏・岩城氏などと争い、これに婚姻外交を織り交ぜて伊達家の勢力拡大に成功した。
抗争と政策
1520年、最上義定が若くして死去すると未亡人を介して最上家を操る稙宗を嫌う最上家武将らが反旗を翻した。
しかし稙宗はこのような行為に屈さずに、寒河江氏との講和が結ばれるまで破竹の勢いで攻め続けた。翌年には室町幕府においては前例の無い陸奥守護に任命された。
10年後(1532年)には、居城を梁川城から西山城に移すと体制の強化に努め、翌年以降から『蔵方之掟』13条の制定を皮切りに、『棟役日記』、『御段銭帳』などの徴税台帳を作成には171条に及ぶ分国法・『塵芥集』を制定し、伊達氏の統治機構の拡充を図った。
1534年には長男・晴宗の嫁探しの為に岩城家当主・岩城重隆の娘を迎える為に一計を案じるが、失敗。最終的に縁談先の白河結城家を攻めている。(この時、稙宗は同時に岩城家を攻めていた相馬家の援軍に加勢しようとするが、相馬家は「私情の為に手出し無用」と断られている。)
1536年には、大崎家の内乱鎮圧のため、大崎義直の要請に応じて南奥州の諸侯を従えて出陣。その代償として二男・大崎義宣を入嗣させる。この結果、奥州・羽州の両探題職を事実上伊達氏の統制下に置く事に成功する。
晴宗との対立
1541年、稙宗は更に越後上杉家に三男・時宗丸改め伊達実元を入嗣、婿の相馬顕胤への伊達領割譲までも画策した。
しかし晴宗や桑折景長・中野宗時ら一部の家臣はこれに反発し、稙宗は西山城に幽閉された。稙宗を助けるべく小梁川宗朝は顕胤に連絡し、懸田城を挟んで晴宗軍と対峙。後に稙宗退去という条件によって一時は終戦となったかに見えた・・・。
しかし翌1542年に鷹狩りの帰途の最中に突如晴宗に襲撃され、再び西山城に幽閉されてしまうが、小梁川宗朝により救出された。同時に稙宗は奥州諸侯を糾合して晴宗と争う構えを見せたため、奥州全体を巻き込む形で天文の乱が勃発した。
稙宗の元には実元以外にも、二男・大崎義宣や六男・葛西晴清に加えて婿の相馬顕胤と田村隆顕や妻の甥である蘆名盛氏らも加勢した為に有利であり、このまま行けば晴宗を倒せるはずだった。
しかし戦いは長引き、乱の最中には晴清が病に倒れて死去。更には1547年に味方であった蘆名盛氏が田村隆顕と対立して晴宗に寝返った事で、寝返える者が続出。
一転して戦況が不利に傾き、翌年、足利義輝の仲裁を受けて晴宗に降伏する形で和睦し、家督を晴宗に譲って丸森城に隠居した。隠居から2年後には大崎家に入嗣していた息子・義宣が晴宗方に味方した義直の手の者によって暗殺されている。
1565年、77歳で死去した。また小梁川宗朝も殉死している。彼の死を以って相馬顕胤の子である相馬盛胤が遺言を巡って伊達家と対立。以後数年間に渡って丸森城を巡る抗争が行われた。
創作物における伊達稙宗
兵種は槍足軽、武力6 統率8・計略は洞の共振。
覇王伝ではPKから登場しているが、モンタージュ顔での登場だった。天道のシナリオ1では伊達(晴宗)家と争っており、開始から1年後にイベント「天文の乱終結」が起こる。ステータスは基本的に統率と武勇が低いが、婚姻外交を織り交ぜて伊達家の勢力拡大に成功した事から知略と政治が高い。