晴宗との出会い
1521年、岩城家当主である岩城重隆の娘として誕生。通称は杉目御前、笑窪御前。同母妹に佐竹義昭正室(佐竹義重母)
1534年、父の重隆は伊達稙宗・相馬顕胤・田村隆顕の連合軍と対立していた。そこで状況を打破すべく、白河結城家当主・白河義綱の息子である白河晴綱に娘を嫁がせようと画策した。
ところがその矢先に顕胤が乱入して「久保姫を伊達家に貰い受けたい」と脅迫。これに対し重隆は「白河家との縁談があるので無理」と反発。その結果、事態は軍事衝突寸前にまで緊迫。
重隆は軍事攻撃を恐れて輿入れを強行させたが、その道中に待ち伏せていた伊達軍の攻撃に遭う。そこで久保姫は稙宗の息子である伊達晴宗と運命の出会いを果たす。
蹴散らされる護衛の怒号、生け捕りにされた侍女の泣き叫ぶ声が響く中、伊達家の力を目の当たりにした彼女は冷静だった。貞操を守る懐刀は晴宗と相対しても終ぞ抜く事はなかった。
この事件によって2人は結ばれた。しかしこの事を聞いた父・重隆は娘に対し勘当を言い渡した。しかし久保姫は書状を書き、晴宗との婚儀を認めてくれるよう何通も出した。その結果、伊達・相馬・蘆名・石川・二階堂連合に圧迫された父・重隆を救った。更に1537年に誕生した晴宗の長男・親隆をすぐに岩城家に養子に出す事に成功した。
6男5女を授かる
1541年、長女・阿南姫が誕生。しかしまもなくして伊達家の内乱(天文の乱)が起こり、夫の晴宗と義父の稙宗が争う事となった。
乱が勃発して2年後の1544年に後の伊達家16代目当主・彦太郎が誕生。奥羽を二つに割る天文の乱中に跡継ぎが生まれたことは晴宗にとって果報だったと思われる。
乱終結の49年には三男・伊達政景が誕生し、翌50年には四男・石川昭光が、その2年後には四女・彦姫、翌53年には伊達盛重を生んでいる。また次女・鏡清院や小梁川盛宗の妻となった三女・益穂姫(天光院)、四女・彦姫、五女・宝寿院、末子の杉目直宗を生んだ。
その結果、計6男5女を産み上げ略奪婚であるにもかかわらず、相思相愛で側室はいなかった。また夭折した子は誰一人として居らず、皆成人している。
1577年、夫・晴宗が59歳で死去すると髪を下ろして栽松院と号し、琥珀山宝積寺を立て菩提を弔っている。
しかし8年後には息子・輝宗が二本松義継の手にかかり非業の死を遂げた。家督は彼の子であり、久保姫の孫である伊達政宗が後を継いだ。
後半期
だが、2年後の1587年に実子・盛重が内乱を2度も起こした事により政宗は成敗しようとする。久保姫は庭坂まで輿を出して取り成そうとすひるが、孫の伊達成実に引き留められる。盛重は最終的に佐竹氏に出奔して、久保田潘秋田伊達氏の家祖となった。
1588年には政宗、成実が会見を行った。息子の殆どが伊達家の敵に回ってしまったため、肩身の狭い事を考慮したのだろうか。その翌年には政宗が蘆名家・二階堂両家を滅ぼした際に捕らわれた長女・阿南姫と杉目城にて会見している。阿南姫や彦姫及び宝寿院にとって政宗は夫や息子達の敵であり。宝寿院の嫁ぎ先の佐竹氏は伊達氏と江戸時代を通じて対立することとなった。実家の岩城家は江戸期は亀田潘となり、後継者問題で伊達と佐竹の対立に巻き込まれる状態が続き、最終的に伊達氏から養子を迎えて、維新を迎えることとなる。
佐竹家は宝寿院の三男岩城貞隆の系統が佐竹本家を継承した関係で久保田潘の上級藩士には宝寿院の子孫が多く、元秋田市長で秋田県知事の佐竹敬久が佐竹側における久保姫の子孫の代表的な存在になっている。久保田潘に出奔した盛重の子孫は仙台に残ったため秋田伊達氏は直系の子孫ではない。
1590年には奥州仕置により石母田の地に移ったが、翌年に岩出山転封に従って宮城郡根白石に移り、隠遁して余生を過ごした。
1594年、久保姫は74歳で生涯を終えた。夫・晴宗との愛は死してもなお、永遠に違う事はなかった。
伊達氏と佐竹氏の抗争において伊達氏側についた子孫達は久保姫の存命中から近親結婚で強く結び付きその多くは、仙台藩上級藩士として江戸時代を通じて繁栄した。
創作における久保姫
Ver2.2にて参戦。計略は「吸精姫の采配」。そのままでは伊達家の味方の武力を少し上げる采配。ただしこの効果を受けた味方が敵と乱戦すると敵の武力が下がる。乱戦部隊数が多くなる程敵の武力は下がっていくという夫とはほぼ同効果だが、下がるのは武力と正反対の計略を持っている。
現状は蒼天録のイベントのみ。なお、100万人の信長の野望では登場している。
武器:双剣 声:下地紫野(新武将・優美の流用:4Empries)
姫武将の1人として登場し、その他に娘の彦姫(声:永島由子)も登場した。