第14代目継承
1508年、相馬定胤(後に盛胤に改名)の庶長子として誕生。弟に正室の子である近胤、胤乗がいる。
顕胤の母は側室の子ではあるが、嫡男として育てられる。もともと壮健ではない定胤は「私には功績もあらず、祖父の高胤に学せよ。決して彼を私に似せてはならぬ。」と家中に命じた。後に正室の子である近胤・胤乗が産まれた後も定胤は長男の顕胤を第一とし、成長を見守った。
1520年には上山義房が伊達家の最上支配に反発して蜂起したが、伊達稙宗がこれを撃破して最上家を統制下に置いた。顕胤は使者として郡左馬助を派遣し、戦勝を祝させた。その翌1521年7月23日に父・定胤が45歳で死去すると13歳で相馬家第14代目当主として就任した。この時、顕胤は力にかけては8人力、家臣と領民を愛で、上下問わず崇敬を集める立派な若武者に育っていた。
ちなみに父の死去の同時期には稙宗の娘との縁談話が終了した直後で、輿入れの話がまとまった際に父の葬式を執り行っている。
晴宗の妻探し
1534年、稙宗は長男・晴宗の嫁探しを行う事を決意。顕胤もこれに加勢し、近隣諸国の風聞を一通り集めて回った。結果、岩城家当主・岩城重隆の娘である久保姫を晴宗の妻として迎えるべく暗躍する事となった。
初めは「久保姫を伊達家に貰い受けたい」と説得した。これに対し重隆は「わしの娘を伊達家の後継者に縁組させるのも良いが、その者との間に子が生まれたならばわしの家の跡取りとして継がせるとしよう。」と縁談関係は良好な状態を保っていたが・・・・。
突如として重隆は態度を一変。顕胤はもう一度説得しようとするが、重隆は「白河家との縁談があるので無理」と反対されてしまう。顕胤は激怒し、同年に岩城領へ攻め入った。
同じく岩城家を攻撃していた稙宗は顕胤に加勢しようとするが、顕胤は「当家の私情の為である故に加勢はお断りいたす」と言って断っている。そして葛見川合戦では啄木鳥の計を用いて岩城方を打ち破り、四倉城を落城させた。更に仁井田城・白土城に攻めかかろうとしたが、岩城家が伊達家との縁談話を受け入れた事で四倉城を返上して和睦した。
天文の乱
この知らせを聞いた稙宗は最大級の賛辞を送ったほか、顕胤に伊達家の領地割譲さえ提示した。しかし晴宗や重臣達の反対も遭って挫折に終わる。
1541年、稙宗が晴宗によって西山城へ幽閉されてしまうと稙宗の側近・小梁川宗朝から密使の連絡を受けた顕胤は懸田城を挟んで晴宗軍の睨み合いが続いたが、稙宗退去の提案を受けて陣を引き、ひとまず終戦となった。
しかし翌年に稙宗が再び幽閉されると顕胤は懸田城下にて情報収集を行ったが、晴宗援軍の岩城重隆勢が現れて敵対行動を取り始めたためこれを追い散らし、阿武隈方面へ移動した。まもなくして両者は軍勢を率いて対戦。天文の乱の始まりであった。
懸田城下に戻ったした顕胤は西山城に向かおうとするが、黒木弾正正房と中村義房兄弟が謀反を起こしたため、軍を再編して討伐へ向かわせた。更に稙宗を保護し、1543年まで小高城に引き取っている。
その後は黒木城と中村城を攻め落とし領内の守備を固める事に成功。更に傲慢な態度をとっていた末弟・胤乗を追放した。1544年頃からは晴宗本隊に加えて佐竹義篤らと一進一退の攻防を繰り広げるが、1547年に稙宗方に離反者が出始めたことで趨勢が決した事で、足利義輝の裁定によって晴宗方の勝利で終戦となった。
1549年に41歳で死去する。家督は実子・相馬盛胤が継ぎ、稙宗の死後に盛胤は後に伊達との領土争いに捧げる事となった。
信長の野望
覇王伝PKより初登場。采配と戦闘は70台だが、反対に政治と智謀は50台にとどまっている。天道で再登場を果たした際に基本ステータスは上昇しているが、何故か40代で死去したのに、顔グラフィックは老人という扱いを受けている。