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南部晴政

なんぶはるまさ

戦国時代中期~末期に活躍した陸奥の戦国大名。三戸南部氏24代当主。南部氏の最盛期を築き「三日月の丸くなるまで南部領」と呼ばれたが、晩年は津軽為信や戸沢盛安に独立され、後継者問題を巡る一族の南部信直らとの争いもあって衰退した。
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概要編集

生没年:1517年~1582年?

諱:安政→晴政

通称:彦三郎


三戸南部氏23代当主・南部安信の長男。武勇優れ南部氏の最盛期を現出したが、晩年は津軽為信の謀反や「屋裏の変」と呼ばれた後継者問題で南部信直や北信愛らの造反を引き起こし衰退した。


南部氏のルーツ編集

南部氏は戦国時代に武田信玄勝頼父子らを輩出した甲斐源氏・武田氏の支流という。武田家初代である武田信義の叔父(または弟)・加賀美遠光の三男である光行を祖とする。加賀美光行は治承・寿永の内乱源頼朝に与し1180年の石橋山の戦いにおける戦功の恩賞として甲斐国南部牧(現在の山梨県南巨摩郡南部町)を与えられこの時から南部三郎を称したという。ただし『吾妻鏡』によれば最初は信濃三郎を称していたが1190年~1195年の間に南部三郎になっている。1189年、藤原泰衡との奥州合戦で戦功を挙げ陸奥国糠部五郡を与えられ、奥州南部家の最初の城である平良ヶ崎城(現在の南部町立南部中学校旧校舎跡地)を築いた。光行死後、長男の行朝は庶子のため一戸氏の祖となり、次男の実光が三戸南部氏を継ぎ、三男の実長は八戸氏の祖、四男の朝清は七戸氏の祖、五男の宗清は四戸氏の祖、六男の行連は九戸氏の祖となり彼らの子孫は北東北に土着することになる。


南部安政(晴政)、表舞台に出る編集

晴政は三戸南部氏出身の当主・南部安信の長男として生まれる。初名は安政。ただし後述の放火事件もあってか安政(晴政)以前の資料は少なく、名門だがその系譜には謎の多い一族であり、父・安信の一次資料にも不足しているほどである。


1539年、家中の領地争いが原因で、安信または安政の裁定に不満を持った家臣の赤沼備中に三戸城を焼き討ちされる事件が起こり、一説ではこの時、南部氏の資料多くが焼失したという。その後、安政は上京(放火事件発生時点で既に城を発っていたとも)し当時の室町将軍足利義晴から一時拝領して晴政と改名、1541年に当主となった。


三日月の丸くなるまで南部領編集

父・安信は弟である石川高信・南長義・石亀信房・毛馬内秀範と共に南部氏の戦国大名化を目指し所領拡大政策を進めたが、晴政もまた父の事業をさらに推し進めた。まず自分に反抗した家臣らを討って居城の三戸城を再建。さらに当時分裂していた南部氏を統一して周辺の斯波氏、戸沢氏、安東氏などと争う。優れた武勇で所領を拡大し、有力一族の家臣団編入にも成功。織田信長と親交を深めるなど外交能力もあり、『三日月の 丸くなるまで 南部領』(夜に南部領に入ると、通り過ぎるころには三日月が満月になるほど広大という意味)と謳われる南部氏の最盛期を築いた。


津軽為信の謀反と南部信直一派との確執編集

正室との間に女児は多かったが長らく跡継ぎに恵まれず、後継者として石川高信の長男・田子信直に長女を嫁がせ養嗣子とし迎えていた。しかし、50を過ぎて側室との間に長男晴継を授かる。

晴政は実子に跡を嗣がせたいこともあり信直を疎むようになり、両者の関係は急激に悪化し「屋裏の変」と呼ばれるお家騒動が勃発する。

さらに大浦城主・大浦(津軽)為信が謀反を起こし津軽郡代だった高信が討たれてしまう事件が発生するが、その鎮圧に失敗する。一説では高信と信直を疎んじていた晴政が為信に高信を討つことを許可していたともされる。

一方で信直との争いは激しくなり続き、1572年には信直に対し自ら手勢を率いて襲撃するが、信直は逆に鉄砲で晴政と九戸実親(晴政の次女の婿)を狙撃し負傷させている。1574年には信直正室が病死したことで信直は嗣子の座を返上したものの争いはさらに激しくなり、信直を支持する北信愛(晴政五女の娘婿・北秀愛の父)ばかりか南長義とも対立することになる。このため晴政は次女の娘婿である九戸実親やその兄で勇将として知られた九戸政実を頼みとし、信直たちに対抗した。


最後編集

とは言え晴政一派と信直一派が正面衝突することはなかったが、その間に角館城の戸沢盛安にまで独立されてしまうなど冴えをすっかり失う。1582年に死去(享年66歳)。晴継が後を継いだ。

一般には病死とされるが、「実際の没年は1572年であり、信直一派の謀反により晴継共々討ち滅ぼされたが、謀反の事実を隠す為に信直側によって没年を10年ずらされた」という説が存在する。実際に

幼い晴継はその後、上記の謀反、あるいは疱瘡、もしくは暴漢に襲われいずれにせよ家督継承直後に死去。その後は北信愛の主導で信直が継ぐこととなったが、その後も信直と九戸兄弟の確執は続くことになる。


人物編集

身分の低い相手に対して寛容な面を見せた逸話を残している。

  • 鷹狩のために外出した際、突如田植え仕事をしていた17,8の娘から「殿様にお祝い申し上げます」と言われ泥を晴政の服に塗りつけられた。ところが晴政は「めでたいことである」と返して通り過ぎて行ったが、後にこの娘は晴政に側室として召し出されたという。彼女は一説に晴継の生母ともされる。
  • 晴政の刀が盗まれる事件が発生した時に見張り番の者が自ら処分を願い出た。晴政は「ここで刀を盗みに来るのは、盗人の仕業ではない。若い侍あたりが魔が差したのだろう。盗んだ刀で励めばそれでよい。武士たる者が金銭を盗んだとなれば処罰するが、この件は不問とする」と言って許したという。

関連タグ編集

戦国武将 東北勢



創作物における南部晴政編集

信長の野望編集

初期~中期のシナリオでは南部家の当主。東北を代表する大名家の一つということで、シリーズはまだ全国ではなかった第一作目を除きほぼ皆勤。南部家の最大版図を築いたという点を評価されてか能力(特に戦方面)は高め。

この年代の東北の武将は戦闘能力が高い者が少ない上に武将の質も良い。本州最北端という立地も(それより北には蠣崎氏しかいない)ゲーム的には好条件なので、難易度は割と易しかったりする。シナリオによっては津軽為信が謀反を起こすイベントが発生するが、屋裏の変が起こらないこともあり南部信直・北信愛・南政義らに造反される心配はない。


南部晴政(戦国BASARA3編集

南部さん

南部晴政(戦国BASARA)

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