ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

武田信義

たけだのぶよし

平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した武将。甲斐武田家の初代。

概要編集

生没:大治3年8月15日(1128年9月11日)~文治2年3月9日(1186年3月31日)?


新羅三郎こと源義光の孫・源清光の次男。

双子の兄に逸見光長(太郎)、弟に坂額御前を娶った浅利義遠(与一)がいる。

保延6年(1140年)、武田八幡宮において13歳で元服。武田太郎を称した。以後、武田八幡神社は甲斐・武田氏の氏神となった。

治承4年(1180年)4月頃、「平家追討」を命じる以仁王の令旨が信義や上野の新田義重、伊豆の源頼朝、南信濃の源義仲、奥州の源義経ら各地の源氏に届けられ、そのうち頼朝が呼応して挙兵するも石橋山の戦いで平家方に敗北、

石橋山の戦いで敗れた頼朝勢のなかは甲斐に逃げ込んだ末、甲斐源氏のもとで平家軍と戦ったものもいたという。


以後、頼朝と連携して平家軍と対抗。駿河で橘遠茂や長田入道を破り、富士川の戦いで平維盛平忠度らとに勝利し駿河を奪取している。その一方で義仲とも連携したり近江源氏の山本義経とも連絡を取り合うなど世間では頼朝と同格の源氏の旗頭と見なされていた。

しかし、養和元年(1181年)に後白河法皇が信義に頼朝追討の院宣を発したとの風聞が流れ、信義は鎌倉に呼び出されて「子々孫々まで弓を引きくことあるまじ」という起請文を書かされてからは同格ではなくなった。

頼朝と義仲、頼朝と義経が対立した時も、信義は一貫して頼朝寄りの姿勢を取り続けた。


しかし、甲斐源氏の強勢ぶりは頼朝の忌むところとなり以下のように次々粛清されている。

  • 元治元年(1184年)、信義の次男・一条忠頼が鎌倉の宴席において暗殺
  • 文治元年(1185年)、加賀美遠光の長男・秋山光朝が謀叛を疑われ処刑
  • 建久元年(1190年)、かねてより頼朝の不興を買っていた信義の三男・板垣兼信が隠岐に配流
  • 建久五年(1193年)、信義の同族の田中義資が艶書事件を起こし処刑
  • 建久六年(1194年)、義資の父・安田義定が謀叛の罪で誅殺

さらに四男・逸見有義はかつて平家寄りだったため頼朝に疎まれ頼朝死後、梶原景時の変で失脚。一方で頼朝と親しかった五男・石和信光や加賀美遠光(信義の弟または叔父)は厚遇されている。

一族間に個別の扱いをすることによって甲斐源氏は分裂し弱体化、武田氏は「源氏の棟梁」としてではなく鎌倉幕府の御家人として扱われることとなった。

武田家は信義死後、信光が継承し戦国時代には武田信虎信玄勝頼らを輩出している。

ちなみに、没年については吾妻鏡では1186年としているが現在では誤記説が強く、一説には1194年あたりまでは存命していたという。

関連タグ編集

鎌倉時代 鎌倉幕府 源頼朝 武田家

八嶋智人2022年NHK大河ドラマ鎌倉殿の13人』で信義を演じた。

関連記事

親記事

鎌倉時代 かまくらじだい

子記事

兄弟記事

pixivに投稿された小説 pixivで小説を見る

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました