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坂額御前

はんがくごぜん

鎌倉時代に実在した女性武将であり鎌倉幕府に反旗を翻す。怪力無双の優れた強弓の使い手であり、身長6尺2寸(187.9cm)の長身女性で絶世の美女であった。 敗戦後の将軍への態度は賞賛され、自身と同じく弓の名手だった浅利義遠(与一)の妻となり一男一女をもうけた。
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概要編集

平安時代末期から鎌倉時代に生きた女性武将で、巴御前ほどではないが、女武者として有名で、古典にしか登場しない巴御前と比べ、鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』にその名前が登場するため、実在した人物とされる。後世では「板額御前」と名が変わって広まった。

建仁の乱編集

坂額の実家である越後平氏・城家は平貞盛の弟・繁盛の子孫とされ『鬼女紅葉伝説』等で有名でなぜか鶴丸国永の持ち主扱いされている「余五将軍」平維茂が有名である。当主は「白川の御館」と尊称され源平合戦では平家方に付いていた。坂額の兄・城長茂は横田河原合戦前に急死した兄・資永を継ぎ木曾義仲源頼朝と戦ったが、平家滅亡後に鎌倉へ出頭した。のち梶原景時の取り成しもあり鎌倉幕府御家人となり奥州合戦に従軍したが、正治2年(1200年)に景時は三浦義村小山朝政結城朝光和田義盛らに弾劾され失脚した挙げ句討たれてしまう。景時シンパの長茂はこれに怒り建仁元年(1201年)、京都にて源氏打倒を掲げて挙兵し手始めに朝政朝光兄弟の命を狙うも失敗し、吉野で討たれた。

一方、越後でも甥の城資盛(資永の子)も呼応して挙兵。坂額も甥とともに鳥坂城に籠もって佐々木盛綱率いる幕府軍と奮戦した。鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』によれば、強弓の使い手と言われ、その奮戦振りを

「女性の身たりと雖も、百発百中の芸殆ど父兄に越ゆるなり。人挙て奇特を謂う。この合戦の日殊に兵略を施す。童形の如く上髪せしめ腹巻を着し矢倉の上に居て、襲い到るの輩を射る。中たるの者死なずと云うこと莫し。西念郎従また多く以てこれが為に誅せらる。」(女性ではあるが弓矢をとれば百発百中の豪の者であり、弓の技量においては父や兄をはるかに超えていた。人々はこの世の事とは思えなかったと語っている。この日合戦の武者振りはことのほか素晴らしく、髪は童のように巻き挙げて束ね、胴巻き姿は素晴らしく、櫓に登って寄せ来る者達を弓矢で射まくった。その矢に当たった者で死ななかった者はいないという強弓であり、佐々木盛綱の家来たちもまた多くはこれによって命を落とした)と評している。

また「但し顔色に於いては、殆ど陵薗妾に配すべし」(唐の天子に仕えられる程の美女であった)とも書かれている(醜女との事になったのは江戸時代の写本で「配」が「醜」と誤記されたためと思われる)。


身長6尺2寸(187.9cm)の長身女性であったと伝えられている。『吾妻鏡』には身長は書かれてはいないが、「その矢に当たって生き残った者がいない」ほどの近代の歩兵銃以上の破壊力を持たせるには強弓といっても三人張りの弓ではとうてい難しく、五人張りの弓と考えられる。当然2mを大きく上回る長さがある長弓であり取り回しは背が低い者にはできず、引き絞るには非常に長い腕長が必要となる。同じ五人張りの弓の使い手である源為朝は身長七尺(2m10cm)ほどと言われ、逆にこれ位の身長もなかったとする方が合理的ではない。また五人張りの弓を引くのには100キロの膂力が必要であり、それを数百回も繰り返せるのは怪力無双とも言え、源為朝伝説を超える物かもしれない。

尤も、遺品から当時の武士の中では「平均より僅かに大柄」に過ぎなかった事が分かっている源頼朝も石橋山の戦いでは鎧武者を一撃で倒す強弓を自ら連射して血路を切り開いているので、「体格からは想像し難い怪力」だった可能性も皆無ではないが。

しかし、幕府軍の弓矢が両足に当たって捕虜となり、彼女を失った途端に反乱軍は壊走し、挙兵は失敗に終わった。


浅利与一の妻になる編集

鎌倉に連れて来られた坂額は二代目鎌倉殿・源頼家の前に引き出され、臆せず堂々とした坂額に将軍や諸将は驚いたという。

その後、甲斐源氏浅利義遠武田信義の弟)の申請で坂額は妻として引き取られ、一男一女をもうけ晩年を甲斐(山梨)で過ごしたと言う。

「何故謀反の徒を室に望むのか」との頼家の問いに対し、義遠は「坂額との間に武勇に秀でた男子を儲け、幕府や朝廷に忠義を尽くさせたい」と答え、頼家は笑ってこれを許したという。公家衆は、美しい女性とはいえその様な勇猛な女性を妻にした義遠を笑ったという。


ちなみに夫となった浅利義遠は源清光の十一男だったために「浅利与一」と呼ばれ同じく与一を通称としいずれも弓に優れた那須与一佐奈田与一と共に「三与一」と称された。坂額のような数百の兵を必殺で射抜いた武勇伝こそ残っていないものの義遠もまた「坂東一の強弓」と称され特に遠矢を得意としていた。壇ノ浦の戦いでは平家方の弓の名手・新居親清を矢合わせの末に射殺している(『平家物語』巻第十一「遠矢」)


山梨県笛吹市境川町小黒坂には、坂額御前の墓所と伝わる坂額塚が現存する。甲斐浅利氏の子孫は次兄・武田信義系の家臣として仕え、武田信虎の家老だった浅利虎在武田信玄に仕え三増峠の戦いで戦死した浅利信種を輩出する。信種の子は天正壬午の乱の頃に徳川家康の家臣・本多忠勝の配下となった。

関連タグ編集

日本史 平安時代 鎌倉時代 越後/新潟 女武者/戦乙女 巴御前 強弓

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