熊谷直実
くまがいなおざね
生没年は永治元年2月15日(1141年3月24日)-建永2年9月4日(1207年9月27日)
熊谷氏は平氏の流れを汲む。「村岡五郎」こと平良文流と云われ父・直貞の代より熊谷姓を名乗った。
幼名は弓矢丸。通称は次郎。出家後は法力坊蓮生(ほうりきぼう・れんせい)と名乗った。
武蔵国・熊谷郷で生まれ育った直実は幼少時から武芸に長けていたとされる。成人してからは保元の乱と平治の乱に参戦し源義朝や源義平の元で活躍し武名を上げる。乱後は東国に落ち延びたが、伯父・久下直光とのいさかいから京に出て平知盛に仕えた。
のち伊豆の源頼朝に備えるために大庭景親に従って東国に下り、治承4年(1180年)の石橋山の戦いでは平家方として頼朝と戦った。
その後、頼朝に臣従して御家人の一人となり常陸の佐竹秀義征伐で大功を立て熊谷郷の支配権を安堵される。
寿永3年(1184年)2月の一ノ谷の戦いに参加。
この戦いでは生田の森を正面から攻める源範頼の主力部隊ではなく源義経の奇襲部隊に所属。
鵯越を逆落としに下り直実は息子・直家(小次郎)と郎党一人の三人組で夜中に平家の陣に一番乗りで突入する大功を挙げた。
しかし平家の武者に囲まれ、直実と同じことを考え先陣を争った同僚の平山季重ともども討死しかけている(『平家物語』巻第九「一二之懸」)
その後はこれといった手柄を挙げられず良き敵を探し求めていた直実は波打ちぎわを逃げようとしたきらびやかな装いをした武者を呼び止め一騎打ちをする。
~直実が敦盛をむんずと取っ組んで、馬から落とし、首を取ろうとすると、ちょうど我が子小次郎ぐらいの年の若武者だった。
直実が「私は熊谷出身の次郎直実だ、あなたさまはどなたかな」と言うと、
敦盛は「名乗ることはない、首実検すれば分かることだ」とけなげに答えた。
これを聞いて直実は立派な大将だと感心すると共に、この人を討とうが討つまいが戦局は決した。息子の小次郎が今日の戦いで負傷しただけでも心配でたまらなかったのに、この人の父親は息子が討たれたと知るとどれだけ嘆き悲しむだろうと考え直実は一瞬敦盛を逃がそうとしたが背後に味方の手勢が迫る中、
「同じことなら直実の手におかけ申して、後世のためのお供養をいたしましょう」
といって泣く泣くその首を切った。
この後首実検し、さらに所持していた笛から平経盛の末子・平敦盛と判明、やんごとない貴公子であったと分かった。
このことがあってから、直実の仏門に帰依する思いは、いっそう強くなったという(『平家物語』巻第九「敦盛最期」)。
その数年後、直実は出家し直家に家督を譲り自身は法然の弟子となり浄土宗の僧として活動した。熊谷の自邸を寺にした熊谷寺(ゆうこくじ)または紫雲山蓮池院熊谷堂で没したとされる。