プロフィール
生没:仁安3年(1168年)? - 延応元年12月5日(1239年12月31日)
通称:平六、駿河前司(駿河守退任後)
官位:右兵衛尉、駿河守、三浦介
幕府役職:侍所所司、評定衆
父:三浦義澄
坂東八平氏の一つにして、相模の有力武士団の長である三浦氏の当主。父・義澄や祖父・三浦義明、従兄・和田義盛らとともに源頼朝の旗揚げに協力し鎌倉幕府の立ち上げに尽力、二代将軍・源頼家就任以降における幕府内での権力闘争においては、北条氏との姻戚関係の構築や権謀術数を巡らせこれを巧みに生き抜き、後には宿老として幕府内で重きをなすに至った。
概要
前半生
生年についての正確な裏付けは未だなされていないものの、『源平盛衰記』における平家追討軍の参加資格にまつわる記述などの傍証から、前述の通り仁安3年生まれとする見解が存在する。
三浦氏は源頼朝の挙兵に際し、当初よりこれに味方する姿勢を見せていたが、義村も最初に史料上で言及される寿永元年(1182年)以降、北条政子の安産祈願の祈祷のための使者や、前述した平家追討軍への従軍、それに頼朝への供奉など、幕府御家人の一人として忠実に仕えた。建久元年(1190年)に頼朝の上洛に供奉した際には、父・義澄の勲功を譲られる形で右兵衛尉に任官している。
やがて頼朝が他界し、幕政の実権が将軍から有力御家人の合議へと移る中で、義村も徐々にその存在感を増していく事となる。
正治元年(1199年)、謀反人と見做され窮地に陥った結城朝光が、義村に助けを求めるという事態が発生した。これは梶原景時の讒訴によるものであったが、朝光からの相談を受けた義村は朝光と共に、従兄弟の和田義盛や安達盛長、さらに朝光の長兄である小山朝政らと謀って景時の排斥に乗り出し、有力御家人66人による糾弾の訴状が出されるという事態にまで発展する。これにより幕府内での立場を失った景時は、程なくして嫡子・景季を始めとする一族郎党とともに、上洛途上の駿河にて討たれるという末路を辿るが、幕府草創期の御家人間の暗闘の端緒ともいうべきこの一件は、同時に義村の「権謀の人」への第一歩ともなったのである。
それから程なくして、父の死去により三浦氏の当主となった義村は、その後に発生した「畠山重忠の乱」において重忠の嫡子・重保を謀殺し、重忠討伐にも主力として参加した。一方で、重忠謀反がでっち上げであると判明するや、彼の従兄である稲毛重成(※)が北条時政夫妻に讒言したのが原因として、義村は重成の弟・榛谷重朝(※)やその息子の重季・秀重兄弟を、一味として手にかけるという変わり身の早さを見せている。
さらに北条義時排除の企て(泉親衡の乱)に端を発した、北条氏と和田氏の対立が激化すると、当初義村は和田胤長(義盛の末弟・義長の子)の赦免嘆願に動くなど和田氏に味方する姿勢を示しつつも、土壇場になって和田方が御所に火を放つに及んで遂に北条方に付くに至った。結果として和田氏は義盛の嫡孫・朝盛らを除いて族滅の憂き目に遭った。
(※ 重忠の叔父・小山田有重の息子たち。一説に戦国時代の小山田信茂は重成・重朝の弟である重親の子孫とされる。また重成や重朝、そして畠山重忠ら秩父党は、義村からすれば祖父・義明の仇でもあった)
実朝暗殺と承久の変
建保7年(1219年)、第3代鎌倉殿・源実朝と源仲章が鶴岡八幡宮にて暗殺されるという凶事が発生する。下手人であった公暁(第2代鎌倉殿・源頼家の次男)は乳母が義村の妻で義村自身も乳母父を務めていたこと、それに義村の四男・駒若丸(後の三浦光村)を門弟としていた事もあり、事件の直後にも義村に対して支援を求めるよう呼びかけた。しかしここでも義村は「迎えの使者を差し上げる」と返答しながらも、実際には義時と謀って討手を差し向け、公暁を討ち取るという冷徹な行動に出ている。
このような背景・行動などから、前出の永井路子を筆頭に実朝暗殺の黒幕を義村に求める見解も根強く残る一方、現在では義村黒幕説は否定される向きがつよい。確実なのは、この時の功績が認められて同年のうちに義村が駿河守に任官した、という事ぐらいであろう。
(吉川弘文館出版の三浦義村の人物叢書においては、義村が公暁の乳母夫というのは吾妻鏡の誤読であり、実朝の乳母夫であったという説を唱えている。)
ともあれ、実朝暗殺によりそれ以前からの朝幕間の緊張関係は、明確な対立関係へと発展。遂には後鳥羽上皇を中心に北条義時討伐のための兵が挙げられるに至った。この時、義村の弟である三浦胤義も京方に加担しており、義村の元にも胤義から協力を求める使者が遣わされていた。
・・・が、ここまでの流れからも容易に察せられる通り、義村にはその要請に応じる気はまるでなく、胤義から託された密書は義村の手から幕府へと渡り、京方の目論見は呆気なく崩れ去ってしまう。その後、義村は東海道方面軍の大将軍の一人として京へと進撃し、東寺において立てこもっていた胤義と再会した折には、彼からの説得を「シレ者ニカケ合テ無益ナリ」と一蹴し、その場を立ち去ったと伝わっている。
承久の乱が鎌倉方の勝利の裡に終わった後も、義村はその事後処理に携わり、後堀河天皇の擁立と行助法親王(守貞親王)の院政確立にも関与したとされる。
幕府宿老として
このように、一見すると北条氏寄りの姿勢を通しているように見える義村であるが、実際のところは完全な味方という訳でもなく、その後も北条氏を翻弄するかのような挙動を度々見せている。
貞応3年(1224年)、北条義時急逝の直後に義時の継室・伊賀の方が義時の長男・北条泰時を排除し自身の子である北条政村(義時の五男)を執権に擁立すべく発生した「伊賀氏の変」では、政村の烏帽子親を務め自身の偏諱を与えていた関係上、義村も陰謀に加担していたとされる。しかし、北条政子からの直接の追及により翻意し、二心のない事を釈明したという。
もっともこの一件については、3代執権に就任した泰時が伊賀氏初め伊賀一族謀反の風聞を否定したのみならず、『吾妻鏡』にすら伊賀氏謀反の明言がない事などから、この当時既に幕府や実家北条氏への影響力を失いつつあった政子によるでっち上げであるとの見解も示されている。実際に義村が陰謀に加担していたかどうかにも疑問符が残されている。
その後、政子や大江広元らが次々没していく中で、泰時により合議制の確立を目指して設置された評定衆に宿老として名を連ね、また泰時が制定した御成敗式目にも署名するなど、引き続き幕政において重きをなした。一方で第4代将軍・九条頼経に対しても、嫡男(次男)の泰村と共に近しく仕えるなど将軍寄りの姿勢も示しており、暦仁元年(1238年)の頼経上洛に際しては、随兵を従えてその先陣を務めてもいる。この時随兵を従えての参列は執権の泰時と、連署の北条時房を除けば義村のみであり、ここからも義村の将軍寄りの姿勢、それに当時の三浦氏が北条氏に比肩するだけの力を持っていたことが窺える。
翌延応元年12月5日に病死。その翌月には時房も亡くなったため、京の人々からは2人の死は同年2月に崩御した、後鳥羽院の怨霊の仕業と噂された。
評価
時には親類縁者すら裏切り、冷徹に切って捨てる事すら辞さないその姿勢は、存命中から既に不可解なものであると受け取られていたようで、末弟の胤義には利にさとく信義に乏しい浅はかな人間という「嗚呼(おこ)の者」と酷評され、藤原定家からは『明月記』において「八難六奇(はちなんろっき)の謀略、不可思議の者か」と評された。また、同時期に成立した『古今著聞集』においては、ある評定で自身よりはるかに年下の千葉胤綱(常胤の曾孫)が、わざと義村の上座に着座したことがあった。これを不快に思った義村が「下総の犬めは寝場所を知らぬな」とつぶやくと、胤綱から「三浦犬は友を食らふなり」と、前述の和田合戦での姿勢を当て擦られたとされる逸話が収められている。
後世においても、小説家の永井路子が義村に対し不可解な人物と評する一方、武力ではなく策略をもって北条氏を終始翻弄し、政治家的資質とスケールにおいて彼の上を行くとされる北条義時でさえもしばしば足を掬われかけたと、「権謀の人」としての義村の魅力を評価している。
北条泰時に嫁いだ娘の矢部禅尼は、時頼以後の得宗家や、泰時の存命中に誕生した足利頼氏以後の足利宗家、戦国時代に蘆名盛氏らを輩出した会津蘆名氏に血を伝えている。また、彼女が再嫁先の佐原氏にて儲けた息子の佐原盛時は、宝治合戦の後に三浦宗家を継承し、この盛時の系統が戦国期まで命脈を保っていくこととなる。
関連タグ
メフィラス義村…中の人ネタ
NHK大河ドラマでの演者
京本政樹…『草燃える』の光村役。
津嘉山正種・遠藤憲一…『北条時宗』(2001年)の泰村役と光村役。
なお、藤岡と山本は仮面ライダー繋がりがあり、山本と津嘉山は共に『クロサギ』2022年版に出演しているが惜しくも時空を超えた親子共演にはならなかった。