概要
鎌倉期の有力御家人・三浦氏の当主の一人で、三浦義村の次男に当たる。
生年については諸説あり、『関東評定伝』にある「享年64」の記述からの逆算で元暦元年(1184年)、もしくは『承久記』の宇治橋合戦に出てくる「生年18歳」とのくだりから元久元年(1204年)とされるが、父や兄の朝村の年齢との兼ね合いなどから、昨今では後者の見解が妥当であろうと見られている。
その18歳で参加した承久の乱での活躍ぶりなど、武人としては一角の人物であったと見られている一方、政治的な立ち回りの面では北条氏は言うに及ばず、その外戚である安達氏の後塵を拝するところもあり、この他にも下河辺氏や小山氏など、所謂「小山党」に属する御家人達とも折り合いが悪かったと伝わっている。
父の代からの将軍家重視の姿勢に加えて、こうした他の御家人達との軋轢などが、鎌倉御家人としての三浦氏の孤立、ひいては滅亡に繋がったと見る向きもある。
生涯
前半生
三浦義村と、土肥遠平の女の間に生を受ける。仮名は駿河次郎。前出の承久の乱では、父・義村と共に幕府軍に属して戦い、宇治川の渡河においては足利義氏と共に果敢に攻め込むなど武功を挙げている。北条泰時を烏帽子親として元服したのもこの頃であったと見られる。
泰時の娘を娶って北条氏の一門衆となり、評定衆に列せられる一方で、父とともに幕府将軍・九条頼経に近侍して幕府内での立場を確立していった泰村だが、嫡男の立場にあったとされる兄・朝村が嘉禎年間の末頃に史料上から姿を消していることから、それと入れ替わる形で義村の後継者となったと考えられている。
義村、そして泰時と実父・猶父が相次いで世を去っていった後、泰村は弟の光村と共に、将軍へのさらなる接近を図って幕府内での権勢を強めていくこととなるが、その北条氏をも凌ぐほどの権勢は、北条氏宗家(得宗家)や安達氏からの警戒視を必然的に誘発する格好となった。
また、仁治2年(1241年)には駿河にて、古参の御家人である下河辺行光(小山政光の弟か)との間で相論を引き起こした他、近い時期には三浦と小山の郎党が酒宴にて乱闘騒ぎを起こし、小山長村らと共に当事者として叱責を受けるなど、御家人間での立ち回りの拙さも度々露呈している。
北条氏との対立
このように北条氏や他の御家人との軋轢を深める中、三浦氏と北条得宗家の関係に決定的とも言える亀裂が入ったのは、寛元4年(1246年)の北条経時(第4代執権、泰時の孫)の死去の後のことである。
直後の北条時頼(第5代執権、経時の弟)の執権就任に際し、名越光時(泰時の甥)らがこれに不服を唱え反逆を企てた「宮騒動」に、弟の光村も加担していたことは、彼が事件に連座して京へ送還された九条頼経の鎌倉復帰を公然と誓ったこともあり、かねてからの三浦氏に対する北条得宗家などからの警戒視をますます強める結果となった。
その一方で、北条得宗家としては当初三浦氏と全面的に事を構えることを佳しとしてはおらず、泰村や三浦氏の政権中枢からの穏便な引退を求めていたとされ、その泰村も慎重な性格ゆえに北条得宗家との和平の方向性を積極的に模索し、反北条勢力の急先鋒ともいうべき光村とは見解を異としていた。
しかし、宮騒動発生直後の同年8月、泰村と時頼の関係にも隙間風を生じさせる出来事が発生する。この頃時頼は、長年六波羅探題として京に赴任していた宿老・北条重時(泰時の弟)を、自らの相談相手として鎌倉に呼び戻すことを考えていた。
しかし、評定の場においてその打診を受けた御家人達の中で、泰村だけがこれに最後まで難色を示したという。泰村にしてみれば、重時の鎌倉帰還で自らの政治的地位が低下することは避けられず、まずもって受け入れられる話ではなかったと見られるが、このことは時頼や北条一門からの心証を悪化させると共に、三浦氏と対立関係にあった安達氏が付け入る隙を与える格好ともなったのである。
そもそも重時の温厚な人柄を考えるに、仮に泰村がこの話を承諾していれば重時も三浦氏に対して穏便な措置を計らってくれたのではないかとも、逆にこの泰村の姿勢が重時を三浦氏排除の側へと転じさせるきっかけとなったのではないかとも指摘されている。
宝治合戦
翌寛元5年から宝治元年(1247年)にかけて、鎌倉では様々な怪現象や流言蜚語が頻発し、さらに高野山からは幕府宿老の一人・安達景盛が鎌倉へと戻り、時頼や安達義景・泰盛父子(共に景盛の子孫に当たる)に対し三浦氏討伐を強硬に説いたとされる。時頼の三浦氏に対する姿勢が穏便であったことは前述の通りであるが、この頃の安達氏もまたそれに同調していたようで、これが強硬派の景盛に業を煮やさすことに繋がったと見られる。
これ以降、三浦氏が謀反の軍備を整えているという密告や、三浦氏の悪言が書かれた高札が掲げられるなど、景盛を中心に三浦氏への挑発的な行動が様々に展開される中、時頼は年頭から打ち続く怪異による混乱の収拾に務めつつ、5月に他界した妹の檜皮姫(5代将軍・九条頼嗣の正室)の喪に託けて三浦邸を訪れ、敵意のないことを示して両者の衝突を回避すべく様々な手を講じていた。
泰村もこれに応じて和平を望む姿勢を示しており、同月末から6月頭にかけて三浦氏が光村を中心に合戦の準備を進めているとの噂が流れた際にも、時頼の命を受け派遣された平盛綱との間で和平の儀を成立させ、これにより今度こそ事態は平穏裡に収拾される・・・かに思われた。
しかし、三浦氏の専横が安達氏の繁栄を妨げている現状への不満を抱いていた安達景盛は、何としてもこの機に乗じて三浦氏排斥を成し遂げるべく、孫の泰盛を先陣として一族を出撃させ、三浦氏との合戦に持ち込もうと目論んだ。
結果、虚を突かれる格好となった泰村は自邸へと立てこもって迎撃に及び、これに光村や娘婿の毛利季光(大江広元の四男)などの親類縁戚、さらに宇都宮氏や春日部氏など将軍寄りの御家人らが三浦方として参集。一時は鎌倉と山内荘(現在の鎌倉市北部から横浜市南部にかけての一帯、北条得宗家が本拠をおいていた)を分断するなど、北条・安達方に対し善戦した。
しかし、鎌倉市中を巻き込んで繰り広げられたこの合戦も、正午を過ぎると風向きの変化に乗じた火攻めで燻り出される形となった三浦方が劣勢に立たされ、遂には泰村の館から法華堂(現在の白旗神社、源頼朝がこの地に葬られていた)に参集。弟の光村がなおも気炎を上げる中、不利を悟り戦意を失っていた泰村は一族郎党500余名と共に自害して果て、ここに幕府草創期からの名族・三浦氏も滅亡の時を迎えた。
後世、「宝治合戦」と呼ばれることとなるこの戦は、先の宮騒動と併せて将軍側近勢力の一掃と、北条得宗家による専制体制の確立に繋がり、鎌倉期の中でも画期の一つと言える出来事として位置付けられている。
一方で、三浦一族の中には泰時の正室であった矢部禅尼(義村の娘)の子・佐原盛時のように北条方に与した者もあり、泰村ら三浦一族の滅亡後にはこの盛時が三浦宗家の家督を継承。以後この系統(相模三浦氏)が戦国期に至るまで、その命脈を保っていくこととなる。