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北条泰時

ほうじょうやすとき

鎌倉幕府・第3代執権。第4代執権・北条経時、第5代執権・北条時頼の祖父。(メイン画像の紫の直垂)
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概要

生没年 寿永2年(1183年)~仁治3年(1242年)6月15日
 鎌倉幕府・第2代執権北条義時を父として生まれる。弟に北条(名越)朝時、六波羅探題北方、連署などの要職を歴任した赤橋流北条氏の祖・北条重時、連署、第7代執権を務めた北条政村、金沢流北条氏の祖・北条実泰、北条有時ら、孫に第4代執権・北条経時、第5代執権・北条時頼兄弟がいる。
 

北条氏と有力御家人の争い

 建仁3年(1203年)、急の病に倒れた2代将軍源頼家(源頼朝の長男)が失脚、頼家の妻の父である比企能員は北条氏の挑発に乗り反乱を企てるが失敗、比企氏は滅亡する。頼家は死去したと公表されて修善寺に幽閉、頼家の弟・実朝(頼朝の次男)が源氏の家督を継ぎ、将軍職も継ぐこととなる。
 建仁4年(1204年)、修善寺に幽閉されていた頼家が暗殺される。
 建保元年(1213年)、北条氏と対立を深めていた侍所別当(軍事機構の長)・和田義盛が挙兵、鎌倉を巻き込む軍事衝突となり、義盛は敗死、和田一族は滅亡した。
 建保6年(1218年)、侍所別当に任じられる。
 

承久の乱

 承久元年(1219年)、3代将軍・実朝が鶴岡八幡宮において甥・公暁に襲われ死去、時の執権・義時は次の将軍に天皇の皇子を求めたが朝廷の最高権力者・後鳥羽上皇はこれ難色を示すが、これに業をにやした執権・義時は弟・時房に1千騎の兵を与えて上洛させ、朝廷に圧力をかける。その妥協策として朝廷はわずか2歳の三寅(後の4代将軍・九条頼経)を鎌倉に下向させることとなった。
 承久3年(1221年)5月、後鳥羽上皇が北面の武士、西面の武士、16ヶ国の守護に「幕府執権・北条義時追討の院宣」を下し挙兵、院宣に従わなかった京都守護・伊賀光季を襲撃する。6月、泰時は叔父・時房とともに幕府軍の大将となって朝廷軍を破り、京の都に入る。
 首謀者である後鳥羽上皇は隠岐、子の土御門上皇は讃岐、順徳上皇は佐渡に配流、京の治安維持と朝廷を監視する六波羅探題が置かれ、泰時は初代・六波羅探題北方に就任、南方に就任した時房とともに京都にとどまった。
 

父・北条義時、伯母・北条政子の死、幕府の実権を握る。

 元仁元年(1224年)、父・義時が死去し、鎌倉に帰還した泰時が執権に就任、執権補佐として新たに「連署」という役職を設け叔父・時房が初代連署に就任、政務決定機関である「評定」を設置、幕府政治を北条氏が世襲する執権が主導する体制を確立する。
 嘉禄元年(1225年)、三寅を後見していた伯母・政子が死去し、三寅が8歳で元服する(九条頼経)。
 嘉禄2年(1226年)、九条頼経が9歳で4代将軍に就任。
 貞永元年(1232年)、幕府の基本法である「御成敗式目」を制定、鎌倉市街の整備にも努める。

 仁治3年(1242年)6月死去、権力欲を持ちはじめた将軍・頼経の処遇が懸案となり、後を継ぐべき嫡男・時氏が早世していたため、これらの政治課題は孫の第4代執権・北条経時、第5代執権・北条時頼兄弟に引き継がれることになった。

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